カジシンエッセイ

第179回 背後で響くもの

2019.10.01

 背後から「もしもし」と声をかけられた。振り返ると、男が立っていて私を見ていた。
「なんですか?」
「ご機嫌よさそうですね。鼻唄を口ずさんでおられる」
 そう言われて、自分が鼻唄をうなっていたことに気が付いた。指摘されなければわからない。「あなたは?」と尋ねると男は微笑んだ。名刺をくれた。
 それには〈人生に深みと感動を/企画〉の肩書。
 変な名前の会社だなあ。そう思いつつ名刺を眺めていたら、男が言った。
「あなたにピッタリの商品をわたしどもの会社で用意しました。その商品のモニターになって頂けませんか。もちろん、無料です。耳で聞くだけ。人生に深みが生まれ、より深い感動を日々味わうことができます」
 人生に深みと、感動......そして無料。断る理由は何もない。心の底で無料より高いものはないとかすかに感じたが。「では、お願いしましょうか」
「きっと満足されますよ」
 男はイヤホンと腕に巻くベルトをくれた。
「お楽しみください。ベルトが感情を測定し、イヤホンに伝えてくれます。では、感想はまた」
 男は去ってしまった。どんな音がイヤホンから流れるのかも教えてくれずに。ベルトを腕に巻いてイヤホンを聞けばいいのか?
 イヤホンを耳に着けたが何も変化がない。ベルトを巻いた腕を振ってみる。こちらも変わらない。
 歩き始めた。軽やかな行進曲が聞こえてきた。どこで鳴っているんだ?イヤホンだ。なるほど、歩くステップも軽やかだ。朝らしく気持ちいい。
 いつもこのあたりで通勤に向かうきれいな女性と会うんだよな。毎朝のお楽しみだ。すると予想通りだった。いつもの可愛い女性が歩いて来る。私の心臓は少しときめいている。
 すると、イヤホンのメロディが変わった。これは......この曲は知っている。ダスティ・スプリングフィールドの「この胸のときめき」だ。彼女はそんな私に注意を向けることもなく信号機を渡って見えなくなった。
 もうすぐ、私の会社だ。いやだなあ。また課長に嫌味を言われるんだろうな。ノルマ果たしてないし。すると耳からメロディが。違う曲だ。今の気分そのものだ。何という曲だろう。
 腕に目をやる。ベルトに文字が流れていた。「暗い日曜日」あ。ベルトに出てくるのは曲名なのか。ほんとに、暗い。足が重くなってしまった。会社に足を踏み入れようとするときまた曲が変わる。ベルトの表示は「亡き王女のためのパバーヌ」鎮魂曲じゃないか。
 男がモニターとして私にくれたのは、バック・グラウンド・ミュージック装置なのだ。私の感情を腕のベルトが読み取り、その気持に一番適した音楽を再生するのだ。生活しつつBGMが流れてくる。
 生の映画音楽と思えばいいか。映画も音楽が流れていないときいないときはあまり感じないが、楽しい場面で明るい曲が流れるとウキウキするし、怖い場面ではおどろおどろしい曲が流れてドキドキさせられる。
 それを実生活でやる装置が開発されたとは。
 それにしても気が滅入る。
 そうか。このベルトを外せばいいんだ。と思って腕から取ろうとすると、ピタリと喰い付いて取れない!イヤホンも耳から外れない。
 とほほだよ。どうしよう......。途方に暮れているとまたしてもメロディが。
 森田童子の曲で「僕たちの失敗」が聞こえ始めていた。まさにぴったりではないか。
 どうしよう。このまま会社に行くとどうなるのか。
 突然曲が変わる。不安を煽るようなメロディだ。これは......「スター・ウォーズ」のダース・ベィダーのテーマではないか。
 遠くから課長が歩いてくるのが見えた。だから、こんなメロディが聞こえるのか!ということは、この状態で仕事を始めたら、どんなBGMが流れてくるのだろう。
 葬送行進曲?鎮魂曲?いや、ジョーズのテーマかもしれない。
 これは緊急事態だと自分に言い聞かせた。こんな状態では仕事になったものではない。
 今日は仕事をさぼろう。
 慌てて木陰に身を隠し、課長をやり過ごすと一目散に、その場から走り去った。
 会社から遠ざかるにつれて、聞こえるメロディも軽やかなうきうきしたものになる。ベルトの曲名はクライスラーの「朝の歓び」だった。そうだよ、これでいい。
 これまでは気がつかなかったがBGMではっきりわかった。私にとって会社は大きなストレスなのだ。どうすればいい?
 結論は一つだ。今までBGMなしでなんとかやってこれたのだ。このイヤホンとベルトさえなければ元の生活のリズムに。
「いかがですか?人生に深みと感動が感じられたのではありませんか?」
 と突然現れたのはあの男だった。
「モニターはやめだ。元の人生に戻してくれ」
 すると男は申し訳なさそうな顔をした。
「すいません。一度装着すると、まる一年はそのベルトとイヤホン、はずせないんです」
「えっ。じゃ、これから私の生活はどうなるんだ」
「実は新製品があるんです。この眼鏡を掛けて生活して見られませんか?世の中の真実が見えて、生活が楽しくなりますよ」
 と、男は有無を言わせず眼鏡を私の顔に押しつけた。これも......取れない!!なんだこれは」
 近くの自動車の窓ガラスを見る。おかしな眼鏡の私が写っていた。でも変だ。私の目の大きさが「点」になっている。ここ、れ、は!と思うと顔から幾つもの縦線が伸びた。さらに、頭の上に漫画文字が「ガビーン!」と浮かんだ。
「はい。BGMに加えて見るものにコミック表現効果を加えるんです。これでいっそう、あなたの日々の暮らしは奥深いものに」
 男の頭上には「ニタ。ニタ」というコミック文字が浮かんでいた。

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