カジシンエッセイ

第86回 うさぎどりのこと

2012.01.01

皆さん、どのような新年をお迎えでしょうか?この一年が皆さんにとって充実した一年になりますように、心から願っております。

 さて、タイトルの「うさぎどり」とは、このコラムの私のプロフィールに登場している奇妙なキャラクターの名前です。
 いつから、この「うさぎどり」を描き始めたのかなあ。
 小説を出版するようになって、時折サインを頼まれたりするようになりました。私の著作にサインを頼まれたら、まず私は「イヤだ!」ということは言いません。サイン本は古本屋では、汚損本扱いになると教えてもらったからです。そして、必ずその方のお名前も書くことにしています。

<○野△夫様 某年某月某日 梶尾真治>
 といった感じです。
 その方の名前が入っていたら、古本屋に売り払われることはないだろう、というさもしい著者の発想ですね。
 というのは冗談ですが(ホント冗談です。本気にしないで下さいませ)、本にサインをしていて、妙に味気ないなぁそっけないなぁ、と思うようになりました。漫画家の方にサインを頂くと、キャラクターがサインに添えてあり、華やかな感じです。そして、尊敬する偉大なSFの先達、星新一さんの星ヅルという強烈なキャラクターのことも頭の隅に存在しました。サインに添えられた鳥に、「これは何という鳥ですか?ヒヨコですか?」とファンが訊ねたら「ツルですよ」ということだったらしい。
それで星ヅルと呼ぶようになったとか。今のゆるキャラのご先祖様のような存在ですね。
 で、私もサインのときにうさぎどりを描き添えるようになったのですが、最初から今の形だったわけではありません。
 最初は頭の部分だけ。ウサギを描いてみたら「あれっ。鳥にも見えるぞ」と気がついたわけです。その後に、「ウサギにも鳥にも見える絵」やら「若い女にも老婆にも見える絵」といったトロンプルイユ(だまし絵)にいくつもであったわけです。
 ああ、このようなだまし絵に夢中になったことがあるぞ!と思い出しました。
 それは高校生の頃。アメリカのコミック雑誌を買ったりしていたのですが、そんな雑誌の中に「MAD」というのがありました。
 パロディばっかりが載っている特殊なコミック誌です。テレビや映画をパロディにした作品を中心に、こりゃぁアメリカの駄洒落かな?というページやら、公文書のパロディやら、ありとあらゆる権威的なものを笑い飛ばすページやらがあって、単語を辞書で調べながらも、大笑いして読んでいたわけです。
 その「MAD」のメインキャラクターは、アルフレッド・ニューマンという十代後半の男の子で、表紙に必ず登場します。丸顔でニキビだらけで耳がでかい。そんな彼が表紙で不思議な図形を指差していたことがあります。それが、これ。(A図)

何だよ。ただの直方体じゃないのか?としばらく眺める。何で、こんな図形を表紙に……?と思っていたら…
 数秒後に気がつきました。
「あっ!」
 これは、存在しない図形なのですね。下は三本のパイプ状。上は二本の直方体が伸びている。高校生の私は興奮して、このありえない図形を描けるように何度練習したことか。
これがだまし絵と私の出会いだったのです。いかにも実存しそうだが、実存するはずのない絵。あるいは甲にも見えるが、視点を変えれば乙にも見える。絵を、ある場所から見たときだけ成立するだまし絵。これまでいろんなトロンプルイユに出会ってきました。オランダの画家エッシャーなどは、まさにだまし絵の天才ではないかと思います。階段が無数にある建物で、どこが昇りでどこが下りかわからなくなる。芋虫みたいないきものが、昇ったり下ったり。
 水が永遠に水路を流れ続ける永久運動のような建物も。
 トリック・アートなどという呼ばれ方もしていますが、未だに憧れるんですね。だまし絵に。
 うさぎどりの身体の部分は、何度も練習しているうちに、だんだん安定して今の形に落ち着きました。うさぎの耳に見える部分が嘴に見えたとたんに、うさぎの手に見えていたものは、鳥の羽根に見えなくてはならない。
 そして完成したのが、今のうさぎどりというわけです。
 去年の年賀状は、このウサギとトリの頭だけを描いた人がけっこうおられました。ウサギ年でしたからね。人間って、友人同士になると似たような発想をするようになるんだなと感心したものでした。
 さて、私は今年も、せっせとうさぎどりを描き続けることになると思いますので、そのときは「下手だなぁ。物好きだなぁ」と思っても生暖かく見守ってやって下さいね。

カテゴリー:アドベンチャー

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