Columnカジシンエッセイ

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Column - 2018.09.03

第166回 しんえんくん

 ぼくは、かつて勇者だった。
 勇者というもの、悪い怪物と戦い、退治して美しいお姫さまとめでたく結ばれるものだと思っていた。
 だから、山を越え、遥か遠いところへ怪物を求めて旅を続けていた。
 ある山を過ぎ岩場にさしかかったとき、驚くようなものを見つけた。岩場の岩と岩の間に何やら真っ黒いものが見える。何だかよくわからずに確認しようと近づいてみる。地面に穴が空いているのだろうか?
 穴などという生易しいものではないことは、すぐにわかった。
 底も見えない真っ黒い空間が、そこにはあった。直径が2メートルほどの丸い亀裂といえばいいのか。なぜ、こんな岩場に底が見えないほどの深い亀裂があるのだろう。
 横に看板が立っていた。
 それにはこう書かれていた。
ー怪物を倒そうとするものは、自らが怪物とならぬよう気をつけよ。ー
 怪物を倒すものって、勇者のことではないのかな?なぜ、こんな看板が。誰が、この看板を立てているのだろう。看板のずっと下を見ると、最後にニーチェと書いてある。あっ、ニーチェさんがこの看板を立てたのか。しかし、なんのために?この真っ黒いそこの見えぬ穴には何か秘密があるのだろうか?
 気になって穴の底をずっと凝視してみた。一所懸命見つめる。しかし闇が彼方まで広がっているだけだ。意味があるのだろうか?ふと、思いつきで「おーい!誰かいるのかぁ?」と叫んでみた。そして「おーい、出てこーい」
 仕方ない。何もわからない、と穴から離れようとしたときに、看板の文に続きがあることに気づいた。
「深淵を覗くとき、深淵もまた、こちらを覗いているのだ」
 そして、もう一度、真っ黒い闇の穴の中を覗き込んだとき、ぶるっと震えがして覗くのをやめた。
 本当だ。この底がない闇を深淵というのか。たしかに、何かがこちらを覗いていたぞ。あれが深淵だったのか?
 こんなところは気色悪くて長居は無用だ。
 立ち去ろうとしたときだった。後ろからなにかが尾いてくる気配がした。振り返って思わずワッと叫んでしまった。この、真っ黒い巨大なものはなんだ!なぜ尾いてくるのだ。「何者だ!」
「わ、私はあなたが今覗いていた深淵です」
「なぜ僕に尾いてくる。お前はただの深い穴じゃないか」
「ええ、私はニーチェという哲学者によって存在が許されるようになったのです。でも誰も私を見ても、ただの穴としか見てくれません。私が私を覗いている人を見ていることを認めたのは、あなたが初めてです。あまりの嬉しさにあなたの後を尾いて来てしまったのです。旅のお供をしていいですか?」
 腰につけたきび団子をやると、深淵は大喜びだった。そして彼を"しんえんくん"と名付けて怪物退治の旅を続けた。
 怪物が現れ苦戦していると、怪物の背後から忍び寄り、一気に飲み込んでくれた。少し卑怯だったかもしれないが、悲鳴をあげながら深淵に落ちていく怪物を見て胸をなでおろしたものだった。やがて、怪物を倒し尽くし、苦労をともにした"しんえん"とぼくは楽しい日々を送ったのだった。一緒に釣りをしたり、女の子の集まりそうなところに行って声をかけたり。いつもぼくは"しんえん"と過ごした。
 あまりにいつも一緒にいるので、だんだんおたがい遠慮がなくなってきてしまう。喧嘩もしてしまう。
「この間、声かけた女の子が怖がったのは"しんえん"のせいだぞ。お前がいなければぼくにはいい感じだったのに」
「そんなことないよ。勇者だった。怪物をやっつけたって自慢ばかりだから、女の子はハナについたのさ」
「なにを勝手なことを。もう"しんえん"の顔も見たくないよ」
「そりゃ、こちらの科白だ」「絶交だな」「ああ、絶交だ」
 ぼくと"しんえん"がつきあうのをやめたのは、そんな他愛もない行き違いからだった。
 それからぼくの人生は、いろんなできごとがあった。勇者だった経験を活かし、戦士トレーナーをやったり、"勇者塾"を開いたりした。いろんな人々と知り合い、裏切ったり裏切られたりしたもした。そして年老いて、ぼくは一人ぼっちの暮らしに戻った。
 ある日、ぼんやりと縁側で過ごしていると、庭先に黒いものが現れた。「まさか......」
 まさかではない。年老いた"しんえんくん"だった。"しんえんくん"も苦労したのだろう。これも縁だろう。もう思い残すことはない。"しんえんくん"の中に飛び込み、自分の人生に決着をつけてもいいのかも。「よく訪ねてきてくれたなあ」というと彼はこう答えた。
「ああ、君のこと忘れられなかった。ぼくのことわかるのは、君が心の中に深淵を抱えているからだ。ぼくが頼れるのは君しかいないじゃないか」言うが早いか、"しんえんくん"はぼくにジャンプした。そしてぼくの心の底にある深淵に入ると限りなく落下していったのだ。悲鳴一つあげず。
 ひとり残ったぼくは縁側で涙を流し続けた。

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