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Column - 2020.12.01

第193回 無神教のお誘い

 師走の声を聞くと風も冷たく思える。そうか、師走かあ、と溜息が出る。大変な年だったなあ、と振り返って毎年思うのだが、今年は特に大変な年だったような気がする。師走は師も走るほど忙しいという意味だが、この“師”というのは学校の先生のことではなく坊さんのことだという。人の道を悟す坊さんでさえ走り回るのか。
 駅前へ来て思う。このような駅前広場では日頃から宗教に関わる人が出没するのだが、なるほど師走はいつもより出現率が高い気がする。大声で叫んでいる男が持つ旗には。
ーー目覚めなさい。神の最後の審判の日は近づいている。
 先を急ごうとすると女性が小冊子を手渡してきた。
ーー神はあなたの行いを常に見ている。
 目玉の絵と仔羊たちの絵。アンバランスだが、その目玉は神の目なのだろうか。
「おまちなさい」と呼び止められた。「なにごとですか」と訊ねると「あなたの心の中に住む邪悪なものが見えます。追いやってあげましょう。わたしの手の先に神が宿っていますから手かざしで浄化します」と
 実は、私は神という存在を信じていない。彼らはこの世界を、宇宙を、神が創造したのだという。神ではなく物理現象で宇宙は生れた。地球が誕生して生物が発生する。生物が進化を繰り返して人間になった。そして現在に至る、と思っている。
 そうではないか!神がどこに介在できるというのだ。
 すべての宗教で死後の世界には天国と地獄が待っている。行く先は生前の行いや信仰によって決まる、ということになっている。だから神が示したルールで生前を過ごすのが大事なのだと。
 神などいない。馬鹿げている。死後の世界など存在するわけがない。死後の世界を恐れる人間が作り出したのが、宗教の正体だと思う。だから、私は、神の存在を信じない。このような者を無神論者と呼ぶのだ。そんな人間は宗教には縁がない。
 それにしても、年末はよくもこんなに各宗派が信者を増やそうと、駅前に出現するものだ。少なくとも私には無駄だ。呼びかけても。
 すると「神はいない」と記されたポスターが貼ってある。これは意外だ。私と同じ考えだ。中年男が叫ぶ。「無神教へお入りください」ポスターには「天国も地獄もない」とある。そして「死後の世界もない」
 これが宗教として成立するのか?驚き呆れて足を止めた。ポスターの前の男が近づいて来て言った。
「顔を見ればわかります。あなたは無神論者ですね。どうです。無神教に入りませんか」
「そんな宗教に入らなくてもやっていける。無神教に入るとどんなメリットがあるというのです?」
 男はにっと笑った。「私は科学者です。快楽死酵素を発見したことを皆に知ってもらいたくて無神教を立ち上げました」
 快楽死酵素…初耳だ。男は話し始めた。
「死後の世界はありませんが、人は死ぬ瞬間に苦しさや痛みを味わいます。ところが、その苦痛をなくす酵素が存在することを私は私は発見しました。その酵素の中でも特別な酵素が存在します。苦痛がなくなるだけでなく、死ぬ瞬間に、生涯味わったことのないような至上の快感を全身にもたらしてくれる。そんな酵素です。これを快楽死酵素と名付けました。現存するどんな麻薬より素晴らしい快感です。入信した途端、この酵素は体内で自己生成されることがわかりました。どうです。そんな体質になりたくありませんか?」
 なるほど。私は神は信じないけれど、これまで味わったことのない快楽が人生の最後に味わえるのであれば信者になってみようかという気になった。しかし、待てよ。
「入信して教団員になっただけで快楽死酵素が得られるならば、いったん入団してすぐに教団をやめればいいとも思えますが」
「無神教に入ればすぐに快楽死酵素がフルに備わるのは確かですが、この酵素はすぐに分解してしまいます。ただ無神教の教義を実行していれば、分解は止められるのです。教義はむずかしくありません。八つの戒めを守るだけです」
 へぇ。簡単な八つの戒めとはなんだろう?
「本当に簡単なことですか?片足立ちで一日過ごせ、とか、お犬さまより早く食事をしてはいけない、とかむずかしいことなんじゃありませんか?」
「そんなことはありません。実はあなたがよくご存知の方も無神教の信者だったとわかっています。たとえばキリスト。彼はキリスト教を起こしてから世の中の真実に気づき、無意識のうちに無神教の法則を実行していたのです。だから十字架で磔にされたときも激痛の表情に見える絵画ばかりが残っているが快楽の極みの表情だったのです」
「ホントですか?」
「実は仏陀も無神教信者でした。仏教を開いた後だったのでいまさら無神教と言えなかった。ご存知かと。傲慢、強欲、嫉妬、色欲、憤怒、暴食、怠慢などを犯さねば快楽死酵素は減少しない。世の中も平和になる」
 なんだ、それは知っているぞ「簡単ですね。七つの大罪を犯すなということですね。それならやれる。私も、その無神教に入信します。ん?待てよ。今ので七つですね。確か、さっきは八つと。最後の戒めは何でしょうか?」
 男はにっと笑った「はい。八番目。汝、教団にお布施を欠かすことなかれ」

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