Column - 2021.03.01
第196回 世の中リモコン
歩いていると、不思議な老人がいる。存在感がないというか、透明っぽいというか。「おかしいなぁ?ここいらと思うんだが?」と呟いている。通り過ぎて振り返ると老人はしきりに道で何かを探しているようだ。
落としもの?と首をひねったとき街路の脇の溝に黒っぽい装置のようなものが落ちているのを見つけた。ひょっとしたら、さっきの老人は、これを探していたのではないだろうか?
あわてて拾いあげて老人に教えてやろうと見ると、老人の姿は薄くなり、消えてしまった。いったい何者だったのか?
黒っぽい装置は長さ20センチほどの板状の物体だった。左上に赤い丸が一つある。その下にいくつものボタンがならんでいた。そのボタン一つずつに意味があるのかもしれない。表示がないからわからないが。
老人が見えたあたりまで戻ってみたが、もう姿がない。目の錯覚でなければ、薄くなって本当に“消えた”のかもしれない。
いったい何者だったのだろう。
そのまま会社に戻った。今日は終業まで営業会議だった。思ったような成績をあげられていないから気が重い。正直、会議も出たくない。成績アップがテーマの会議なのだ。
会議が始まり、課長がそれぞれに意見を述べさせる。いらいらしながら順番を待つ。早く終わればいいのに、と、手に持っていた黒い装置を握りしめた。
どうしたことか、課長が甲高い声でチャカチャカ話し始めた。慌てて手を離すと、話が正常になった。
この装置のせいだ。
会議は続く。次があてられ意見を述べたが、つまらない、と課長に罵倒された。
次にこちらを指差した。なにもアイデアはない。脂汗がにじみ装置を握ると、会議の出席者がいっせいにフリーズした。
この装置のせいなのか?
課長はこちらを指差したまま静止。他の課員もつまらなさそうに止まったままだ。
わかった。この細長い黒い装置は世の中のリモコン装置なのだ。そして今押したのは“一時停止”。さっき、課長がものすごい勢いで話しだしたのは“早送り”か。いや“1.3倍速再生”なのだろう。立ち上がって課長の前に置かれた用紙を見ると「試みる手法案」が箇条書きにしていくつもあげられてる。あわててそれを写して席に戻り装置を動かす。
世の中がまた動き出した。
立ち上がって、今メモしたものを読み上げて「以上のようなものを打開策として申し上げます、これらを一つづつ実施していくことが有効かと思います」
席に座ると、課長はぽかんと口を開けてこちらを見ている。先に結論を言ってしまったので、早々に会議は終わってしまった。
終業時間まで早送りして帰りたかったのだが、どれが早送りボタンなのかがかわからない。
定刻で終業して家に帰る。
帰り道にぼんやりと考える。あのリモコンを落とした老人は、いったい何者なのだろう?
ひょっとしたら神さまなのかもしれないなぁ。そして、この世の中を操作しているのかも。
家に帰ると妻に文句を言われた。頼まれていた買い物を忘れてしまったからだ。妻の小言に耐えていると、持ち帰ったリモコン装置が目に入った。そして、その斜め前には我が家のブルーレイディスク用のリモコン装置がある。その2つを見比べて気がついた。
なんと、テレビやブルーレイのリモコンと私が拾って持ち帰ってきたリモコンのボタンの配列はまったく同じなのだ。ということは…。
ブルーレイリモコンの早送りの位置にあるボタンを試しに押して見る。すると妻の小言がすごい勢いで進み、あっという間に終わってしまった。これだ、これだ。
ブルーレイのリモコンの方には操作方法がすべて表示されていた。同じ位置のボタンを押せば、世の中も同じように操作できるのだ。しかし、今の生活は同じことの繰り返し。いい加減飽き飽きしてきたぞ。このリモコンで、もっと刺激のある生活はできないものだろうか?
ぼんやりとそう思うようになった。ブルーレイリモコンに細長い“チャンネル”というボタンがあった。では、こちらの方の同じ位置にあるボタンを。
エイッ。
うわっ。目の前の世界が消え去る。ここは密林の中か。遠くから獣の吠える声がする。そして地響き。近づいてくる。巨木の間から出現したのは恐竜だった。あわててボタンを押すと、部屋の中だ。半裸の美女がソファーの私に飲み物を差し出す。これだよ。この世界だ。いつまでもこの世界が続いてくれればいい。「もうお別れなの。残念だわ」と美女が言う。いやだ、行かないでくれ。この世界がいい。と“停止”位置のボタンを押すと世界が凍結してしまった。世界は変化しないが、何も動かない。どうすれば元に戻る?いろんなボタンを押してみたが、凍結した世界が元に戻ることはなかった。あとは、リモコンの左上にある赤いボタンしかない。
仕方ない。その赤いボタンを押してみると、世の中のすべてが真っ白く……消え