Column - 2021.06.01
第199回 大井川の奇蹟
得意先への訪問は予定時間通りだったのだが、客に引き止められてしまった。次の約束の時間に間に合うにはすぐの高速バスに乗ってギリギリの時間だ。
福岡から熊本へ走る九州高速道にある大井川インターから数100メートル離れた場所に高速バスの乗り場がある。
私は残念なことに運転免許証を持っていない。だから、遠方の客を訪問するときは高速バスかJRを使うしかないのだ。だが、このあたりにJRは走っていない。高速バスを使うしかない。実は次の客との商談は数百万円の取引。個人事業主の私としては喉から手が出るほどの案件なのだ。しかし、時間に厳しい相手と聞いている。1分たりとも遅刻するわけにはいかない。
なぜこのあたりにJRが走っていないのかといえば街らしい街がないからだ。タクシーもあまり走っていない。しかたがないので客先にタクシーを呼んでもらった。タクシーに乗り込み「大井川インター近くの高速バス乗り場まで」と叫んだ。タクシー運転手は「わかりました」と発車した。時計を見ると次の熊本行きのバスは20分後のはずだ。高速バスの停留所まで5〜6分ということだった。「着きました!」タクシー料金を払って降りる。目の前の階段を登ればバス停だ。急ぐ。時計を見る。10分ある。よかった。バス停に立つと、息が止まりそうになる。何、ここは福岡行きのバス停だ。熊本行きのバス停は、道路を挟んだ向こう側ではないか。慌てて階段を駆け下りるとさっきのタクシーは、こちらに気づくはずもなく無情に去っていった。
どうすれば向こうのバス停に行ける?
タクシーどころか、下の道は自動車一台通らない田舎道なのだ、鍬をかついだ農家のお年寄が通りがかったので、これ幸いと尋ねてみた。「熊本行きのバス停に行きたいのですが、高速下のトンネルとか、渡る橋とかありませんか?」お年寄はのんびり答える。「そうじゃのう…数キロ先にトンネルがあるのう」数キロ先なら走ってもバスには間に合わない。どうしよう。おろおろ。向こうのバス停は見えているのに。中央分離帯まで入れて40メートルくらいだろうか。
だが、高速道路はすごい勢いで自動車が走りすぎていく。自動車が走っていなければ全速力で駆け抜ければ10秒もかからないだろう。よし、駆け抜けるか!いま行けば間に合う。
一歩、踏み出そうとしたとき、白のステーションワゴンが目の前を走った。すごい風圧が身体を襲う。ゴウッという通過音も。
ひゃあ!
一歩も進めぬうちにひっくり返る。次の一歩。警笛だ!10トントラックが壁のように迫り、轟音を鳴らして近づき去っていった。
カバンがない。見るとぺしゃんこに道路の上に転がっていた。その上を次々に自動車が通過していく。
「向こうに渡りたいのかい?」と声をかけられた。振り向くと腕組みをして男が立っていた。黒子のように黒づくめ。黒足袋姿。「あなたは?」「俺は、この大井川の高速越人足だよ。あんたは一目でわかる。ここを渡りてえんだろ。渡してやろうか?ちと値段は張るがね」
「高速道路をどうやって渡るんです?次々に走ってくる車に轢かれるのが関の山ですよ」
「こちとら代々、大井川の渡し人足をやってる。渡りは腕と心意気なんだ」
「無理ですよ。無理」
「よおし。じゃあ、あんたの落としたカバンを特別に拾ってきてやろう」言うが早いか、男は高速道路に飛び込みぺしゃんこのカバンを「あっ危ない!」拾って「あっ!きゃあ」と叫ぶ私のところへ戻ってきた。「ほい」と私の手渡す。「腕は、こんなもんだ。渡りたいし、時間もないんだろ?どうするね。少々高いが、これは技術料だ」渡し賃をいわれて驚いた。高い。そう漏らすと「じゃあ、いいよ。納得した人だけ渡してるからな」「いや、お願いします」数百万の取引がふいになるより、一か八か渡してもらうべきだろう。いかに高額でも。
「よし、わかった。じゃあ担ぎますぜ」
ひょいと私を肩車すると高速道路に入る。クルマが前を走り、ひょいと踏み出す。すると背後をクルマが通過する。そして、またひょい。近づくクルマに悲鳴を上げる。男はそんなのお構いなしにひょい。ついに中央分離帯だ。「あこぎな渡し人足なら、向こうまで渡りたければ倍の賃料を、とここで言うところだが、あっしはそんなこといわない。安心なさい」と男は言った。私は感心した。「すごい渡りだ。これにはなにか秘伝があるのかね」私は尋ねた。「うん。先祖から伝わっているのは、心を無にすればクルマの隙間が見える!だね」「はぁ!じゃ、これまでは、迷うことなく高速道路を走り渡ってきたんですか?」「ああ、そうだ。向こうへそろそろ渡りますかね」と私を肩に担ぐ。「心に迷うことなく……。そう言えばかなり前にお客さんに言われたなあ。ムカデはどの足から動かすか自分でちゃんと迷わずわかっているのかな?あんたは右足から渡るんか?左足から渡るんか?ってね。そう問われたら考え込んで渡れなくなったっけ。あっ。あっいけねぇ、思い出したら渡れなくなったじゃねぇか。とほほほ。すまねぇ。お代はいらねえ。向こうまでは自分で渡っておくれ」そう言って再び下ろされた。ここで下ろされても困る。すると遠くから熊本行高速バスが近づいてくるのが見えた。急がなくっちゃ。間に合わない。どうすればいい?心を無にするったって。ふっ、と走るクルマの隙間が見える。これだ!
無事に高速道路を渡った私は、そのときの快感が忘れられず熊本インター近くで渡し人足をやっている。案外お客は多いんだぜ。名も売れてきたしね。バスには間に合ったが開眼したんだ。こんなに快感のある仕事はないってね。いつでもおいで。あっ、という間に安く渡してやるよ。職を変えたおいらがね。