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Column - 2021.08.01

第201回 忘れな草お姉さん

私の記憶では、初めて彼女に会ったのは幼稚園のときだ。一人っ子だった私は他人と諍いをおこすなどという経験はまったくなかった。遠足のとき、私のお菓子をクラスの男の子たちに取り上げられた。どうしたらいいかわからず泣き声をあげたとき、誰か甘い匂いのする人に抱きしめられた。そして「あなたにはこれを用意しているから」と代わりのお菓子を渡してくれた。顔をあげると品のあるきれいなお姉さんが笑顔で私を見ていた。甘い匂いの他にもう一つ印象に残ったこと。お姉さんがつけていたブローチだ。薄い青の小さないくつもの花。それが白いブラウスの上にあった。
彼女は突然いなくなった。どこに行ったのかわからなかった。ただ、偶然にあのときだけ出会ったのではなかった。私の心に彼女の記憶は深く刻まれていた。また会いたいと。
次に会ったのは小学生のとき。学校の帰りがけ。なかなか掛け算が覚えられないので呟きながら歩いていた。七の段になると必ずつかえてしまう。「七一が七。七二、十四……」七六まできて言葉に詰まったとき、後ろから私の肩をやさしく叩いた。「七六、四十二。七七……?」私は叫んだ。「四十九!」振り返るとあれほど会いたかったお姉さんがいた。笑顔で小首を傾げてみせた。白いニットのセーターに例の薄青の小さな花がいくつもついたブローチをつけていた。あのときと同じ花だ。「ねえ、それはなんの花?」「これ?忘れな草という花よ」名前どおり、決してそれからその花の名前を忘れることはない。七の段と九の段の掛け算を彼女は一緒に唱えてくれた。不思議なことに一人では決してスムーズには言えなかったのに、彼女と一緒に唱えると完璧に覚えこんでしまっていた。そして振り返った瞬間、彼女の姿はなくなっていた。
一つ疑問が湧いた。あのお姉さんは幼稚園のときに会ったときからまったく歳をとっていなかった。名前もわからない。でも会っているとなぜか懐かしい。
中学生になった私は学校の帰り道に公園の前を通った。いつもと少し違う風景。彼女だった。足がすくんでしまった。彼女が笑い手招きをした。最後に会ってから、彼女と会うのを何度夢見たことか。彼女は言った。「ずっと待っていたのよ」私は彼女が持っていたスケッチブックを見た。公園の風景があった。公園の樹々の間を歩いている私らしい少年が小さく描かれていた。彼女はスケッチをしていたのだった。彼女は変わっていなかった。初めて会った幼稚園のときと同じ。私は言った。「会いたかったよ」彼女は言った「私もよ」
「忘れな草」思わす私は呟いた。彼女はこのとき濃紺のダンガリーシャツを着ていたが、胸にはあの忘れな草がつけられていた。彼女に名前を尋ねようとしてためらった。女性に気安く名前を聞いていいのか?失礼なことではないのか?「とってもかわいい」と彼女は私に言った。私が口を開きかけたとき彼女は立ち上がった。「ごめんなさい。時間がないの」そして立ち去った。もちろん私は後を追った。だが、ある大樹の陰に走り込んだ彼女を追うと…彼女の姿はなかった。
それから私はいつも周囲に注意を払うようになった。いつ、忘れな草のお姉さんが現れるかわからないからだ。だが、なかなか現れてはくれなかった。
時が経ち、私は高校生になっていた。成長してあのお姉さんの年齢にずいぶん近づいたと思っていた。だが、会える機会はなかなか巡ってこなかった。
運動会の日。高校の運動会は見に来る父兄も少ない。私の出る種目は200メートル走と男子舞踏。男子舞踏とは空手の型に組み体操とダンスを組み込んだものだ。男子演舞の途中で私は彼女を見つけた。手を振り拍手をする彼女。その笑顔ははっきりと私を見ていた。演技が終わり私は彼女のいた場所へと馳けた。しかし……彼女はいなかった。あたりを走って捜した。代わりにあれは彼女だったという証拠が落ちているのを見つけた。忘れな草のブローチ。確かの彼女がここに。その頃から彼女に恋心を感じるようになった。
それが忘れな草のお姉さんと会った最後だ。彼女が誰なのかはわからないまま。大学に入り、就職してサラリーマンになったが、再び会うことはなかった。忘れな草のお姉さんの正体は誰だったのだろう。ひょっとしたら、あの懐かしい感じは親しい人なのではないか?いや、思いあたらない。やがて私はある女性と知り合い結婚した。結婚相手があのお姉さんではないかと夢想したこともあるが、似たようなところもないではないが、お姉さんとは違っていた。私はなにごともなく人生を過ごしていったが、脳裏からお姉さんの面影がなくなることはなかった。私に娘が生まれた。成長していく過程でふと、あのお姉さんは娘だったのではないかとも思った。だが違う。私のことを毛嫌いし、ろくろく話もしないまま誰かと恋愛し、嫁いでしまった。
それから何年か経って娘夫婦は近所に引っ越してきた。スープの冷めない距離だ。
そして孫娘が生まれた。孫娘は不思議に私になついた。彼女は成長するにつれて、私の若い頃のことをしきりに聞きたがるようになった。その頃だった。私の身体に死病が見つかったのは。この先あまり長くはないようだった。私を慕ってくれる孫には、そのことを包み隠さず話した。孫はそれを聞いて号泣したが顔を上げて言った。「私、テレビのアニメでタイムマシンのことを知ったの。私、発明する。そしたら、昔のおじいちゃんに会いに行っていい?」私は大きく頷いた。そしてまだ幼い歳の孫に、忘れな草のブローチを渡した。

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