Column - 2021.09.01
第202回 根子岳の猫屋敷
宮地までは自動車で。ヤカタガウド登山口に駐車して歩き始めたのは夕方だった。民話を知ってから気になっていた。いろいろと確かめたい。
リュックを背負うと気が引き締まった。
ヤカタガウドのウドとは、谷のことだ。つまり館がある谷という意味か。根子岳は阿蘇五岳の一つだが、そこに猫の王の屋敷があるという伝説がある。私は歩き始めた。岩盤が露わになった谷。両側の壁の間をたどりつつ歩いていく。見上げれば奇岩が目に飛び込んでくる。紅葉の時期もさぞや見事だろうなと思った。今は穴の空いた眼鏡岩に目を奪われていた。
歩き始めたが夕方だったからすぐにあたりは暗くなってきた。やはり、昔話でしかなかったのだろうか?
いくつかの谷をカーブに沿って曲がると、目に灯りが飛び込んできた。よもや。
大きな屋敷のシルエットが見える。石の壁にへばりつくように建っている。これが、根子岳の猫屋敷なのか。
私は屋敷に入った。すでに薄暗い。灯りはいくつかの石燈によるもので電気はここまで来ていないようだ。二十一世紀だというのに。
「ごめんください」と玄関で叫ぶ。ひたひたと奥から足音がして女が姿を見せた。
「道に迷ったのですが、一夜の宿をお願いできませんか?」と、考えていた台詞を口にした。
女は嬉しそうに笑った。若くて恐ろしいほどの美人だった。聞いていた通りだ。
「お安いことです。食事も用意します。お風呂を使われてゆっくりお休みください」
私は部屋に通されて、しばらくゆっくりとくつろいでいた。そのとき庭先から別の若い女が現れた。「もし、お風呂に入ったら全身猫にされてしまいます。私は、昔あなたの隣家で飼われていた三毛でございます。あなたには良くしていただいたので教えます。すぐに、ここから逃げてください」
やはり、そうか。根子岳の猫屋敷の伝説は本当だったのか。伝説と同じ展開だなあ。
しかし、隣の三毛がここにいたとは知らなかった。ときどき仕えに来るそうな。
私はリュックの中から用意していたものを取り出し、風呂場へと向かう。風呂は湯が溢れそうだった。これが人を猫へと変える湯か。
それから慌てて身支度を整え、リュックを背負うと屋敷を飛び出した。
もうすでにあたりは暗くなっている。一刻も早く駐車場へ戻りたい。すると、「待てー」という声。見ると崖の上に人影が。私を屋敷に招き入れてくれた美女が、湯桶を持って追ってくる。美人なだけに怒ると般若以上の恐ろしい顔だった。逃げながら美人を怒らせてはいけないと、真剣に心に刻み込んでいた。
ガレ場の終わりの砂防ダムが目の前だった。湯桶の美女の追ってくる姿はもう見えなかった。
「助かった」駐車場までようやく戻ると、へなへなと腰が抜けて座り込んでしまった。
夜のうちに熊本市内の我が家に帰り着いた。左肘の後ろに異様な感覚があった。これか!と思い、肘を鏡に向けてみた。予想通りだった。その部分だけ円型に三毛猫の毛のようなものが生えていたのだった。
やはり伝説ではなかった。民話はすべて本当のことを伝えていた。根子岳には猫屋敷があり、迷い込んだ人間を皆風呂に入れて、猫に変えてしまうのだ。
それが本当だと信じたからこそ、私は根子岳まで出かけたのだった。
リュックの中からポリタンクをゆっくりと用心深く取り出す。こぼさないように。それから小さなペットボトルにベビーポンプで湯を分け入れた。
それから私はリストアップしておいた知り合いに次々に電話をかけまくった。
「もしもし。私ですが。今日はあなただけにとっておきのものをお奨めしようと連絡しました。効果百パーセントの養毛剤が手に入ったんです。この液体を頭に塗るだけで、すぐに毛が生え揃います。施術は私がやります。少々お高くなりますが、確実に効果のある方法ですから、そこは目をつぶってくださいませ。もう一度青春を取り戻したいと思いませんか。いや、自分には不要だと感じられたら、お使い頂かなくても構わないんですよ。無視されてけっこうです」
すると、口には出さないが薄毛に悩んでいる人たちがいかに多いかがわかる。
注文頂いた方の指定の場所まで出かける。そして、ビニール手袋をつけペットボトルのお湯に筆を浸して、頭の薄くなった場所に塗っていく、と、あら不思議。みるみるうちに毛が生えてくる。
毛といっても猫の毛だ。三毛猫の毛だったり、白猫だったり、サビトラだったり、黒猫だったり。本来、この人が猫に変えられたら、そんな猫になるんだろうなという毛だった。
根子岳の猫屋敷の話を聞いたときから思いついていた「もし本当だったら」やってみたい商売だった。おかげで、随分と育毛処理で儲けさせてもらった。三毛だろうがキジだろうが、毛染め剤を使えば要望のままだし。猫屋敷のお湯が足りなくなればまた根子岳に行くつもりだ。ただ、これを使うとお客さんの話し方も少し変わってしまう。「高いニャー。もう少し、安くならんかニャーゴ。いや気に入っとるんだがニャー」
それは仕方ないと思ってニャー。