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Column - 2022.02.01

第208回 ママのくるま

その時代。自動車にA Iが組み込まれるのは当たり前になっている。そして運転も音声操作だ。自動車も音声で応えてくれるし無駄話にもつきあってくれる。父親が新車を買ったときも販売スタッフが納車の時に尋ねてきた。「初期設定をやりますが、性別・言語が選べます」「そうですか」と父親は考える。それからスマートフォンを差し出す。「実は3ヶ月前に妻を亡くしたのですが、息子が母親を亡くしたショックから立ち直れていません。これは妻が長年使っていたスマホで、妻の声も妻の情報もすべて入ってます。このスマホの情報を自動車に入れてもらえませんか?」
技術担当者は「やってみましょう」と。
「いつもは、一般的な性別のない音声でかまいません。息子が乗ったときだけでいいですから。まだ幼い息子が悲しみを感じなくて済むように」
「わかりました」
そして父親は自動車に乗り始めた。新車だから乗り心地は文句のつけようがない。そして「今日は息子を乗せるつもりだ。息子の名はヒロ。よろしく頼むよ。ほとんど泣きっぱなしの状態だから」とある朝、自動車に伝えた。
「はい。ヒロさんの母親として話すのですね」「そうだ」
乗ってきた男の子は四、五歳に見えた。自動車は肩を落としているヒロに声をかけた。「ヒロくん。元気ないね。男の子なんだから元気出して!」その声を聞いたヒロは驚いて声をあげた。
「その声。ママなの?帰ってきたの?どこにいるの?」「私はクルマの中にいるのよ。わけあってクルマから出られないの。でも、クルマに乗ればいつでもお話しできるのよ。会うことはできないけれど。ごめんね」
それでもヒロはがっかりするどころか表情を輝かせたのだった。「大丈夫だよ、ママ。自動車から出られないならいつでも僕は自動車に話しにくるよ」
自動車は母親のスマホから情報を最低限、取得していたようだ。運転席の父親もその声に驚いていた。
「幼稚園はどうなの?」
「楽しいよ。でも、ママがいなくなって少しつまらなかった。これからはもっと楽しくなると思う」
その言葉通りヒロはみるみる元気を取り戻していく。やがて、小学校に入っても何かあるとヒロは自動車に乗りたがった。父親が帰宅するのをヒロは門の前で待ち構えているのだった。「ヒロだよ。またママを演じてくれよ」
「はい。わかりました」
性別のない声からA Iは瞬間的に母親の声に切り替わる。
「ねえ、ママ。今日の理科と算数は僕だけ百点だったんだよ。ママに知らせたくて」「ありがとう。二つとも百点満点だったなんてすごいね。ママとっても嬉しいわ」「うん。たくさん勉強してママがこの自動車から出られるようにしてあげる」「楽しみだわ」
そうして時が過ぎていく。小学生になったばかりだったヒロも成長していく。父親の自動車も何度目かの車検を受けることになった。最初はあまり必要がなかった部品交換も必要になってくる。
「A Iも新バージョンにアップしますか?」「いや、しばらくはこのままでいいよ」
父親も息子が乗ってきて妻の声の自動車と話すのを聞くのは楽しみでもあった。ヒロも何かと理由をつけて自動車に乗りたがった。それから、また数年が経過した。
最近は。
ヒロは積極的には自動車に乗ろうとはしない。乗ってもあまり自動車と話そうとせずに車窓を眺めているだけだ。成長したということか。
「ヒロが変わったのは気がついているだろう」父親がそう尋ねると「はい」と自動車は中性的な音声で答える。「やはりヒロが成長したということかな」「はい。そう推測されます」「もうヒロも自動車免許が取れる年齢なのに。そしたら、この自動車もヒロに譲ろうと考えていたのだが」すると自動車は意外な返答をした。
「申し訳ありません。自動車を路肩に寄せて、停車してかまいませんか?」父親は故障の可能性も考えつつ自動車を停止ささた。
「どうしたんだ」と自動車に尋ねる。
「ありがとう。あなた」自動車の声が突然変わった。それは母親の声……いや亡くなった妻の声だった。
「おまえ……まさか」
「ええ。そう私よ。ここまでヒロを一生懸命育ててくれて、ありがとう。ヒロは立派に成長してくれた。あなたには感謝の言葉しかないわ。あなたは、自分の楽しみまで削ってがんばってくれた」
今、父親も一人の夫に変わっていた。妻から感謝の言葉を聞かされると、涙が溢れてきた。それで視界が完全に歪んで何も見えなくなってしまった。自動車が路肩に寄せて停車してもいいかと尋ねたのは、そういうことだったのか、と夫は理解した。「しかしこの声はヒロに対して設定してあったのに」
「ヒロが設定を変えたの。ヒロはA Iに関する知識はあなたより上。だから設定の書き換えくらい朝飯前なの」
夫は思う。ヒロも大人になったんだと。「心配なのはあなたの身体。血糖値が少し高いわ。飲み過ぎないでね」「わかった。それもヒロが言わせたのか?」「違うわ。運転席で健康もわかるのよ」しばらく沈黙があった。自動車が言う。「じゃあ、私、元の声に戻りましょうか?」
「いや。話し相手になってくれないか?いや、このまま二人で昔行けなかったところを旅行してみないか?」
「こんなポンコツの私でいいの?」「ポンコツ……?そりゃ僕の方こそだよ」夫は涙を拭かないまま声をあげて笑っていた。
それからは夫と自動車は、どこまで走っても走り足りない気持ちでいるのだろう。きっと、いつまでも。

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