Column - 2022.03.01
第209回 免許を返す
「自動運転解除」と波兵が言う。自動車は「もう少し、私にまかせてもらえませんか?」と答える。「だめだ。わしが主人なんだぞ。わしの言うとおり解除しろ」自動車は素直にその命令に従う。
今のA I付きの自動車は二年前に波兵のために息子が買い替えさせたものだ。古希を過ぎたあたりで波兵の運転能力を心配するようになった。そしてA I運転機能付きの自動車に買い替えさせたのだ。これなら、行先を告げただけで自動車は波兵を目的地に運んでくれる。だが、家族が乗っていないときは、すぐに波兵はA I運転機能を解除してしまう。「機械に運転を任せていたら、どんどん自分の運転能力は低下してしまう。そんなの我慢できんわい。自分で運転できるうちは自分でやるんじゃ」というのが波兵の理屈だった。家族から見送られて家を出るときは、もちろんA I運転で出発する。「今度、もし運転して何かあったらお父さん、自動車免許は返納してもらいますからね」そう家族には言われている。「そんなのわかっとるわい」と憎まれ口を叩くのは忘れない。運転の醍醐味とは自分でアクセルを踏み込んでハンドルを操作するところにあると信じている。
「話しかけてもいいぞ」と波兵が自動車に言う。遠慮していた自動車は、波兵に嫌われない程度に声をかける。「春らしく風が気持ちいいでしょう」「あたりまえだ。気持ち悪いなら窓閉めるし、そもそも運転しないよ」「ブレーキは早め、早めにお願いしますね」「そんなの、危ないときに止めてくれるのがA Iだろうに」「でも、今は波兵さんの運転ですから、私はブレーキをかけられませんよ」「そういうときはブレーキをかければいい」「これから細い道でカーブが続きます。心して安全運転をお願いします」「いちいち言われなくてもわかってるよ。ドライブテクニックには自信があるんだ。これがわしの楽しみの一つでなあ。ほら、ヘアピンカーブだ!」「なるほど、独特な軋み音ですね」「おや、お前は怖くないのか?わしの運転で」「私に怖がる機能はありません」「へぇ、話せるやつだな。よし、もう少しタイヤを響かせてやるか!」
そしてある日のこと、波兵が楽しみを奪われることになる日が突然やってきた。
自動車の自動運転を解除して波兵がハンドルを握っていたときだった。道の反対側の電信柱の陰から、突然幼児の乗った子供用三輪車が現れたのだ。慌てて波兵は急ブレーキを踏んでハンドルを大きく回した。自動車は惰性で大きく弾かれて車輌の頭部を電信柱に激突させて止まった。ボンネット部分は大破していた。自動車が申し訳なさそうに言った。「私がついていながら、こんなことになってしまいました。お詫びの言葉もありません」幸い誰にも怪我はなかった。いわゆる自損事故というやつだ。波兵は思わず毒づいていた。「そうだ。わしよりもお前の責任だろうが。何のための人工知能だ。必死で事故を食い止めてこそのA I車といえるんだろうが」それに対して自動車は何も口ごたえをしない。
そのまま自動車はレッカーで整備工場へと運ばれていった。自力走行もできないほど破損したのだから。
波兵には、それから家族の非難が待っていた。「お父さん。約束でしたよね。今度、自動車運転でミスをしたら、免許証を返納すると。お父さんの安全のためだし、社会のためでもあるんです」
「もちろん、そのつもりだ。約束を忘れはせん。明日でも免許は返してしまう。ああ、せいせいする」その言葉通り波兵は免許を返納した。事故を起こした自動車は修理工場から戻ってくることはない。手続きをした息子も何も教えてくれないし、波兵も尋ねることはできなかった。メンツがあるから。そしてうすうすと、自分の運転技術に限界を感じていたのは内緒だ。免許返納の時期を考え始めていたときでもあったし、自動車が必要なときは家族がいつでもどこでも送ってくれると言っているし、困ることは何もない。
波兵が自動車免許を返納して半月。庭の草花をいじっていて、ふと自分の生活に欠けたものを感じた。なにかは、すぐにわかった。誰も自分に話しかけてくることはない。家族は波兵がいなくても楽しそうに語り合っている。「おい、園芸ばさみ知らないか?」「知りませんよ。もっと、ご自分でよく探してください」
波兵は外出した。電車をいくつも乗り継いだ。自動車があれば簡単なのに。目的の整備工場に着いた。息子はいつもここに頼んでいる。
「こちらに事故を起こしたうちの自動車があると思うが」「ああ、息子さんの要望で廃車いたしました」波兵は腰から力が抜けてへたり込んだ。自分には自動車(あいつ)が必要だったのに。それが波兵にはやっとわかったのだった。家では誰も話し相手になってくれなかった。唯一の話し相手がA I自動車であったことに気がついたのは今朝のことだった。「廃車…」と呟く。「A Iもかね」「ああ、データ消しました。個人情報ですからね。悪用されないように」
すべて絶望だった。背後から声がした。「自動運転解除ですか?」聞きなれた声。波兵の目から涙が噴き出した。「おまえ!」
整備士が慌てて言う。「あ、それバックアップデータなんです。これも消さなきゃな」「待て。これだけでも譲ってくれないか」波兵は自動車のデータを持ち帰った。
それからしばらくして、波兵は孫に三輪車を買い与えた。子守りをする波兵の声は明るい。「ペダルの踏みすぎに注意しましょう」と三輪車が言う。「自動運転!」孫の代わりに波兵が叫んだ。「わかりました」と自動車は答えた。子どもの三輪車にも今はA Iを取り付けることが可能になったのだ。心なしか自動車のA Iの声は朗らかだった。