Columnカジシンエッセイ

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Column - 2022.04.01

第210回 おはりんプー!

高校受験の日まで私は女子と話したことがなかった。初めて話したのは受験会場で私の隣に座ったカズコだった。彼女は、白っぽいひらひらした服の、先生あるいは試験官に連れられて入ってきた。座る前に私を見て素敵な笑顔を浮かべて言った。
「おはりんプー!」
たぶん挨拶だと思った。なんて変わった挨拶をするのか。おはようございます、でも、こんにちはでもなく、初対面の私に「おはりんプー!」とは。吹いてしまった。
どう返したのか記憶にない。「あ、ああ」だったのか、それとも頭を下げただけか。ただ、これまでに会った女子の誰とも違っていた。彼女が言った「おはりんプー!」だけは忘れない。彼女と友だちになりたい。そんな気持ちが急速に膨れあがった。だが、どうすればいい。女子と何を話せばいいのかわからない。迷っているうちに彼女は問題を解き終えたらしく、先に会場を出る。ああ、これで彼女と友だちになるチャンスは失われた。
しかし、奇跡は起こった。私が会場を出ると彼女は外で待っていてくれた。なぜ?
こんな幸福な奇跡はない。「いっしょに帰りたいと思って」と彼女は言った。
そして彼女がカズコという名前であることを知った。私もヒロシと名乗り、つきあいがスタートしたのだった。同じ高校に通うことになったし。
彼女は素晴らしかった。成績もよかった。私が勉強を教えてもらう方だった。そしていつの間にか、カズコは私の彼女という存在になった。カズコも「私の彼!」と私を友だちに紹介するようになった。最初は照れていたが、すぐに馴れた。それから、大学も同じ。大学を出ると同時に婚約した。「どうしてぼくとつきあったの?」と尋ねた。「とても好き。タイプだったから」そんなものか?カズコは私にも尋ねた。「じゃあヒロシはなぜ私と?」答えようがない。好みだったから、としか。似たようなものか。結婚して二人で生活を始める。しばらくは共稼ぎ。一生懸命働き、休日にはよく遊んだ。映画を見たり旅行をしたり。お金に余裕ができると自動車を買った。他愛のないけんかはしても、それ以上のものではなかったし、すぐに仲直りした。やがて子どもが欲しいなということになり、カズコは専業主婦になる。三人の子に恵まれた。子どもの教育もしつけもカズコはよくやった。それでも進路や学力のことで悩んでいたようだ。カズコに苦労をかけないように身を粉にして働いた。カズコにやってやれるのは、いたわりの言葉をかけてあげるくらいか。それでもカズコは泣き言ひとつなく、知り合いの悩みの相談までやっていたのだった。親が齢をとり、そちらの面倒まで見なくてはならなくなった。「ヒロシが元気なら、私はそれでいいの」とカズコは言ってくれた。全てが順調というわけではない。次男の交通事故、台風と洪水に遭い激しい地震にも襲われた。それでもなんとか乗り切り、親を看取り三人の子どもたちを社会へ送り出した。二人とも若くはなくなった。カズコの容貌も初めて会って好きになったとき較べれば褪せている。しかし、この頃は私もカズコも外見はどうでもよくなっている。おたがい空気のような静かな日々を続けるようになった。カズコは時間があるときは地域の奉仕活動に参加し、人々の役に立つことを願いながら過ごしていた。私も私なりに自分のスキルを世のために使ってきているつもりだ。穏やかな暮らしといえる。そしてある日カズコの体調に変化があった。すぐに治る病気だと思ったが、実はそうではなかった。カズコはタチのよくない病魔に襲われたのだ。医者からカズコの病気について覚悟しておくように、と告げられた。そんなことは信じられなかった。必ず奇跡が起こる。二人で元気に笑いあいながら散歩ができる日が、また来るはずだ。悲劇的なことは考えるまい。そう自分に言い聞かせる。
やがて、カズコの介護の日々となった。医者の予告どおり、彼女の体は悪化の一途をたどった。「なにも心配せず、元気になることだけを考えた方がいい」しかし、カズコは自分のことをちゃんとわかっているようだった。そしてこう言った。「本当に今までありがとう。もし、生まれ変わることができたら、またヒロシと結婚したいなあ」「そんなこと言ってはいけない」「生まれ変わったら、また一緒になってくれる?」涙があふれた。「もちろんだよ。なぜ、急にそんなことを」カズコは驚くことを言った。
「天使みたいな人が現れて、私に言ったのよ。カズコさん。あなたはずっと人のために献身的に生きてきた。願いをかなえてあげます。なにか願いはありませんか?と言われたから、死んでも、またヒロシと一緒にいたいと。そしたら、天使が、いいですよ!って言ってくれた」「天使って、どんな人?」「白っぽいひらひらした変わった服を着た人」想像もつかない。そんな人間がいるだろうか?いや、何かおぼえがあるぞ。そうだ。高校受験の日、カズコを連れてきた人だ。そんな……。まさか!
「あのとき私が変わった挨拶をした、と言ってたよね。ヒロシ。なんて言ったの?」「忘れたの?“おはりんプー!“と言ったんだよ」「そう。わかった。今度会ったときも、ヒロシにそう言うね。おはりんプー!」その数日後、カズコは旅立ってしまった。
近ごろカズコのことをよく思い出す。
私も世のため人のため善行を積めば、“天使のような人“がやってきて願いをかなえてあげると言ってくれるのだろうか?そしたら尋ねてみよう。あの朝、私の前に現れたカズコは生まれ変わった彼女だったのか、と。
おや、白っぽいひらひらした服の人が見えたような。そうだ。私の記憶を消して高校受験の朝に戻してほしい。そうお願いしてみたら、かなえてくれるだろうか?

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