Column - 2022.07.01
第213回 グルメの神さま
私の趣味は、おいしいものの食べ歩き。皆はネットのグルメ情報で探すらしいけれど、私はあまりあてにならないと思っている。グルメ情報に低い点で載っていてもおいしい店があるし、高い点でも予約が取れなかったり高かったり、それほどの味でなかったり。だからけっこう自分の勘で店に入ることが多い。
その日の昼どき。市内から外れた場所を通りかかるとうどん屋が。駐車場にもたくさんの自動車。人気店のようだ。ここで食べよう。飛び込む。店内もたくさんの客。入口で注文をとっている。え、何を頼めばおいしいんだ。汁と麺の組み合わせで”熱つ熱つ””熱つ冷や””冷や熱つ””冷や冷や”があるらしい。迷っていると後ろがみるみるならび始めた。ど、どうしよう。
すると視界の隅のテーブルで食べている貧相な老人が私を見て言った。
「迷ったら”冷や冷や”を頼んだらいいよ」
これ以上迷ったら後ろの客に迷惑がかかる。私は言った。「”冷や冷や”お願いします」
席に着く。うどんを食す。うまい。歯応え。汁と麺の冷やっこさ。全身が覚醒した思いで、むさぼり食べた。食べ終わり大きな溜息を吐き立ち上がった。アドバイスは正しかった。勘定を払う前にテーブルの老人に礼を言おうと探した。
だが、姿はない。いつの間に店を出たのだろう。あれは誰?特徴ある口調と貧相な風体に似合わぬ眼光を放っていた。しかし、消えた。そのとき私は思った。あの人は、只者ではない、と。
私も単純な人間だ。数日後にはすっかり彼のことは忘れてしまっていた。そして、その夕刻。晩飯を食べて帰らねばならぬ時間。繁華街から少し離れた駅裏。数軒の食堂や居酒屋が並んでいた。どの店に入ろうか。またしても迷う。数軒の店を見比べていると一軒からほろ酔いの老人が足をよろめかせながら出てきた。そして、すっくと私の前に立つ。
「どの店で食べるか、迷っとるのかね」
「え。ええ」と答えながら、老人の眼光と声に覚えがあることに気がついた。思い出した。あの”冷や冷や”うどんをすすめてくれた…。
「ここの焼き鳥。絶品だ。誰も知らんだろうがな」
狐につままれたような気分で、私は言われるままに老人が出てきた店に入ろうとした。ふと、我に戻り老人の姿を探したが掻き消したようにいなくなっていた。仕方なく、店内でカウンターに座りひととおり串を焼いてもらうことにした。
鶏皮から手羽と続いた。頬張り目を開く。タレも塩も……これぞ絶品の焼き加減。しかも肉そのものも新鮮だ。ツクネも手造り感に舌が歓ぶ。なんだ、こ…この焼き鳥は……。まさかこんな名店だったとは。しかも客はぼちぼちの入り。あの老人が教えてくれなければ、私はこの店のことは知らないままだった。そのうまさに視線も定まっていなかったようだ。炭火で鳥串を焼いていたおじさんに声をかけられた。
「お兄さん。うちは初めてですね」
「え、ええ。こんなにおいしい焼き鳥は初めてですよ」
「嬉しいねぇ。どちらさんからのご紹介ですか」
「はい。迷っていたら、この店からさっき出て来られた方が、ここの焼き鳥、絶品だって」
思いあたらないらしく頭をひねっていた。私は言った。
「年齢を召した……眼光鋭い……」
それでも、ぴんと来ないのか、私とおじさんの会話は途絶えた。あいかわらず出てくる焼き鳥はどれもおいしい。謎の老人が誰なのかをいろいろと考えた。なぜ、私に教えてくれるのか?どこかで会ったことがあるのだろうか?そして、店の人は老人のことをなぜ覚えていないのだろう?そこで、ふと思いつくことがあった。ひょっとしたら、あの人は神さまではないのか。おいしいものを知り尽くしたグルメの神さま…。だから、私に教えてくれる……。そう考えると妙に納得できた気がした。焼き鳥があまりにもおいしかったので、寝たきりの母へのお土産に折に詰めてもらった。母は焼き鳥が好物なのだ。案の定、こんなにおいしい焼き鳥は生まれて初めてだと喜んでくれた。そのとき母が願ったこと。「子供の頃食べたプリンをも一度食べたいねぇ。方々売ってあるけど、全部ちがう」母の願いなら、叶えてやりたいが、どこで買えば正解なのかわからない。プリンなんてどれも同じだろう。ずっとそれからプリンことが頭に引っかかっていた。ある日、小さなケーキ屋を通りかかると、見覚えのある老人がいる「ここのプリン、いいと思うよ」神さま?
騙されたつもりでその店のプリンを買う。店の外に出たら老人の姿は、すでにない。
母のベッドに持って行く。母は口にするなり「これだよ。この味。固さ、甘さ。幼い頃を思いだすよ。もう思い残すことはない」なんと母は大喜び。そして、その翌日、安らかに息を引き取った。寿命だったのか。間に合ってよかった。
それからグルメの神さまに会うことはなくなった。どんなに気をつけていても再び姿を現してはくれない。ほんとうにあれは神さまだったのか?幻を見たのではないのか。そうして時は過ぎていく。
ある日、あのうどん屋の前を通りかかった。なんとも懐かしい気持ちで、うどん屋に飛び込むと、案の定、大入りの客で賑わっていた。行列に並び、”冷や冷や”を注文した。テーブルの隅に座り、すすった。
うまい!この味だ!神さまに教えてもらった。
ひとしきり食べて立ちさろうとすると列が止まっている。見ると列の前で若者が注文に迷っている。なかなか決まらないので後ろの客は不満のようだ。「迷ったら”冷や冷や”を頼めばいいよ」そう口にした。若者は目を輝かせて注文した。その若者の目にはどこか見覚えがあるような。ひょっとして、この若者とどこかでまた会うかもしれないな。