Column - 2022.08.01
第214回 上天草の油すましどん
上天草の東部を走っていると栖本町に入る。栖本町は河童伝説が有名で、河童の看板やオブジェが多い。見つけると心が和む。このまま進めば、ほどなく天草市本渡になるな、とぼんやり思う。あてのない日曜ドライブだった。
すると意味不明の看板標識が目に飛び込んできた。青い囲みに青い文字だった。
〈油すましどんの墓〉
油すましどんのお墓?油すましどんってどんな人?いや、人か?水すましみたいなもの?
その標識のある場所は空き地になっている。そこに愛車を駐めた。何か気になった。油すまし……油すまし……。聞き覚えがあるからだ。
車を降りると看板があった。
油すましの解説だ。大まかには、こうある。
ーこの峠には「油すましどん」という妖怪の昔話が残る。河内村へ帰る老婆が小さな孫の手を引いて、草積峠へさしかかったとき「昔は、こんなところに油すましどんが出たんだよ」というと、「今でも出るぞー」と言って油すましどんが現れた。これを民俗学の父柳田國男先生が民俗誌の連載で「アブラスマシ」という妖怪を紹介したところから広く知れ渡るようになった。昭和五十七年栖本町民俗調査で、河内町に「油すましどんの墓」といわれる供養塔が存在することが発表された。
この地区では油すましどん伝説を継承し、油すましの里づくりに取り組んでいる。ー
そうか。聞き覚えがあると思ったら、妖怪にゆかりの場所か。油すましとは椿油を絞ることのようだ。それがなぜ、妖怪なのかはわからない。妖怪だからかなり怖い姿をしていたのだろうか?
〈油すましどんの墓〉の標識には矢印がついていた。せっかく車を降りたんだ。歩いて行ってみるか。妖怪の墓なんて、どんなのだろう?
好奇心が優先した。矢印に従って県道から右折する。軽自動車がやっと一台通るほどの田舎道だった。道の左右は農地だ。背後の県道もあまり車の通りは多くはないから、辺りはあくまでも、のどか。あくまでも静かだった。
ここに妖怪が出現したのか、と考えると意外な気がする。遠くで小鳥が鳴いている。あやかしとは一番縁がなさそうな場所ではないか。昔はこの辺りは拓けていなくて鬱蒼としていたのだろうか。
待てよ?と思う。油すましどんというのは本当に妖怪だったのだろうか?老婆と孫が話をしていたのは「ここいらに油しぼりをする人たちが昔おってな」ということだけ。そこを通りかかった椿の油しぼりの職人が「今もおるぞ」と自分のことを答えただけではないのか?それが妖怪の連載の中で柳田國男が紹介しただけで「油すましどん」は妖怪に分類されるようになったのではないか?話の中では妖怪らしい姿も語られないし、不思議な行動をしているわけでもないし。
本当に妖怪なのかな?
一本道をとぼとぼ歩くが畑ばっかりでそれらしきものは見えない。小さな橋を渡り、まだ進むが油すましどんに関する標識はない。道がつきあたり、左右に分かれるが、どちらに行ったものか?迷う。引き返そうか。
プッと音がする。振り返ると白い軽トラックが停まっていた。ぼんやりして道を塞いでしまっていたのだ。「あっ、すみません!」と頭を下げる。軽トラックには地元の人らしい痩せた小柄の老人が乗っていた。そうだ。尋ねてみよう。
「あ、すいません。油すましどんはここいらに?」老人は、ほう、と頷き「すぐそこ」と指差す。「珍しかなあ。油すましどんばねえ」と言って追い越して走り去ってしまう。その山道を辿ると、木製の看板があり今度は〈油すましどんの里/ようこそ!〉と書かれていた。墓じゃないのか。下に降りる階段があり首のない石像が三体祀られていた。これだけ?これが油すましどん?
拍子抜けした。こんなものなのか。誰かの供養塔ではあるのだろうが、明治政府の神仏分離政策、廃仏毀釈によって首がもぎ取られた結果がここにあるのだろうな。しかし、首はなくとも石像は地元の人たちに手入れされ、守られている。それで十分かもしれないな。
油すましどんが本物かどうかは、どうでもいいのかもしれない。伝わる石像たちが地元の人たちに大事にされていることがわかるだけで。
さあ、県道まで戻るとしよう、と山道を下り始めた。すると後方から、聞いたことのあるプッというクラクション。さっきの老人の軽トラか?と振り向く。やはりそうだった。見つけました!とお礼を言う。「さっきはありがとうございます。おかげで油すましどん、わかりまし……」しかし…。
軽トラから顔を出したのは中年のおばさん。訝しげに私を見た。そして言った。「はあ?さっき?会ってないよ」人違いなのか。
「てっきり、さっきのおじいさんかと。この道の先に行かれたので戻ってこられたのかと。同じ白いトラックだったので」
中年のおばさんは首を傾げる。
「この道は行き止まりだよ。私は誰ともすれ違っとらんが。油すましどん見にきたのかね」「そうですが」「そりゃ、油すましどんが教えたんじゃないかね?この場所」「さっきのおじいさんが妖怪?この現代に?ここで…?」中年のおばさんの顔がぐにゃりと変わって痩せた老人になった。老人はニヤリと笑った。そしてあんぐり口を開いた私に「今も出るぞー」