Column - 2013.07.01
第104回 ハリーハウゼンの事
私が大好きだった映画人の一人が、レイ・ハリーハウゼンでした。今回は彼について。
子どもの頃、私が衝撃を受けた映画が数本あります。いずれも小学校に入る前に、観て、心に深く刻み込まれました。その一本が「原子怪獣現わる」です。北極の氷の底で眠っていた恐竜タイプの怪獣が原爆実験によって目覚め、ニューヨークを襲う。
この映画は、日本のゴジラにも影響を与えたと思えてならないのです。ただし、ゴジラは着ぐるみで、中に人が入って怪獣を演じるのですが、原子怪獣はまさにトカゲあるいは恐竜の動きが忠実に再現されていました。その中で強烈なシーン。
原子怪獣がニューヨークの街に上陸してすぐのこと。暴れるのを阻止せんと警官が怪獣を拳銃で撃つのですが、怒った怪獣は、その警官を・・・喰ってしまう。
子どもの私は恐怖で泣き出してしまいました。
数年後、私が強烈な映画だなと思える作品が、ある共通項を持っていることにぼんやりと気がついていました。巨大タコがサンフランシスコを襲う「水爆と深海の怪物」や、空飛ぶ円盤やロボットが侵略する「空飛ぶ円盤地球を襲撃す」なども小学校低学年の頃に観ることが出来ました。そして、映画館で貰う映画チラシを読んで、これらの映画がハリーハウゼンによって作られたものだということを知ったのです。
私がいかにハリーハウゼンが好きかというと、彼の作品はDVDで全て集めたほどです。それから、熊本大学で映画に関する講義をやっているのですが、その一コマで必ずハリーハウゼンの作品について話すことにしています。奇しくも、今年も講義の中でハリーハウゼンの話をしようと準備していた5月7日、彼の訃報が飛び込んで来ました。
残念でなりません。しばらく放心状態に陥ったほどです。
幼い日に、なぜあれほどハリーハウゼン映画に心酔したのかというと、異形のもの(怪物や宇宙人やら)が他の俳優たちと一緒に写っていたからです。それが不自然ではなく、現実の一場面として。
今でこそCGによるSFXで、どんな映像でもアリ!の時代になりましたが、当時、非現実的なビジュアルを作り出すのが、いかに困難で手間がかかることであったか。その時代、ハリーハウゼンは人形アニメの手法で怪獣を動かしていたのですね。そして人物の映像と合成する。これをダイナメーションと呼んでいたのです。
映画フィルムは1秒に24コマが必要。だから、人形を24回動かしてやっと1秒のフィルムになる。それも怪物が数体だったり手足の多い怪物だったら、その手間は……。
ハリーハウゼンは、それでもこの面倒くさい作業が好きで好きでたまらなかった。
彼は1920年生まれですが、13才の時に「キングコング」を映画館で観て、映画マジックの虜になったようです。それで「キングコング」を作ったオブライエンを訪ねて、自分の作った怪物人形などを見てもらっていた、という……今でいうおたくの先祖ですね。それからオブライエンに声をかけて貰い最初に作ったのが「猿人ジョーヤング」だそうです。この映画もキングコングっぽい。
もう一人、レイという同じ名前を持つ人物がいます。SF作家のレイ・ブラッドベリです。2人は高校時代からの大親友。
2人の関係が私は大好きです。2人は“恐竜大好き”同士で知り合ったらしい。だから「俺たちは大人になっても、恐竜大好きなまんまでいような」なんて約束を交わしていたらしい。だからブラッドベリはSF作家になったので2人の約束は、ともに守られたことになる。
で、「原子怪獣現わる」は、原作がブラッドベリの「霧笛」という短編なのです。生き残りの恐竜が、霧の中に浮かぶ灯台を仲間と思い込み、抱きつこうとして壊してしまう……といった話が怪獣映画になったんですが、お互い、この映画が完成するまでそのことを知らなかったそうです。完成の時に、それを知ってどんなに喜び合ったことか。
それからも2人のレイは親友同士。ブラッドベリも、ハリーハウゼンの新作を楽しみにしていたそうです。
ただ、その後はあまりSF映画は撮っていません。どちらかと言えば、ファンタジーっぽいのが多いかな。「シンドバット7回目の航海」や「アルゴ探検隊」などが大好きです。でも嬉しいことに必ず、怪物を出してくれるのです。その頃の作品で印象に残っているには「アルゴ探検隊」での骸骨集団と主人公のチャンバラ戦と、「シンドバット7回目の航海」での一つ目巨人とドラゴンの死闘シーンですね。
これらの映像を思い出すと、どんなにCGの特殊効果が進歩しても、その基盤は、ハリーハウゼンの功績の上にあるんだと信じます。
そうそう。ハリーハウゼンがアカデミー賞で功労賞を受けた時、プレゼンターはブラッドベリだったなぁ。昨年ブラッドベリが亡くなった時、まずそのことを思い出しました。そして残ったハリーハウゼン、淋しいだろうなぁ、と。
だから虹の向こうで、今頃は2人が抱き合って喜んでいて欲しいと願っているのです。