Column - 2024.02.01
第232回 死神 vs 生神さま
世の中は、さまざまな偶然で出来ている。
たとえば、私。数日まではそこいらのどこにでもいる平凡なサラリーマンだった。
その朝、通勤していると目の前で女の子が自動車にはねられ十メートルほども飛ばされて道路に叩きつけられた。
救急車を呼べ!息がないぞ!と騒ぐ人々を尻目に私は横たわった女の子を抱きかかえた。
なるほど顔に血の気がなく息をしていない。
私が「しっかりしなさい」と揺すると、なんと!女の子は呻き声をあげた。
顔に血の気が戻っていく。一時的に仮死状態だったのだろう。
皆が私を指差して「この人のおかげで生き返ったぞ!」まったく外傷もないようだ。よかった!と私が言った瞬間だった。
私の背後に閃光が走り雷鳴が轟いた。空は晴れているのに私の後ろの樟の巨木に雷が落ちたのだ。
青天の霹靂が文字通りに現実に起こるとは。これほどの偶然を私は知らない。
偶然がいくつ同時に起これば奇跡と呼ばれることになるのか。女の子は立ち上がり、私に礼を言った。
そして周囲の人々は平伏して私に“神さま“と祈りはじめた。そう呼ばれて悪い気はしない。
「神さま」だけじゃない「生き神さま」と。
そして「何かお言葉を」
私は軽くため息をつき、何と言うべきか考えた。
思いつかないが神さまといえば聖書だろう。聖書に書いてあるのは‥愛という単語だったかなあ。
確か、神は愛であると言ったな。「愛‥‥」と言うと怒涛のように叫びが湧き上がった。
「生き神さまがお言葉をのたまわれた」それで十分だったのか。私の背後でビートルズのオールユニードイズラブが流れていたような気がする。
愛こそ、すべて‥か。
それから私は生き神さまになった。その翌日の新聞にも私のことは載っている。私も生き神さまとして一躍有名になったようだ。
来客だ。玄関に出るとひょろりと背が高い陰気な男が立っていた。全身黒ずくめ。
「どちら様ですか?」
「死神と申します」
「死神って、あの死神ですか?」
「そうですが」
「なぜここへ?」
すると死神という男はじっと私を睨んで言った。
「あなたのことを新聞で読んだのですよ。誰も私のことは歓迎しないのに、あなたは新聞に載って褒め称えられているじゃありませんか。一度会っておかなくてはとお訪ねしたんですよ」
私は慌てて「いえ、私が生き神かどうか皆が言い出したことで本当かどうかもわからないのですよ。
私には神の自覚などないし、私なぞ無視されるのが一番かと思いますよ」
すると死神は大声で言った。
「いや、ここへ来てあなたを一目見たときからわかりました。どんなに否定しても嘘はつけません。あなたは生き神です」
そうか。死神に断定されるくらいだから、私は本当に生き神になったのかもしれない。
「はあ。わかりました。納得されたらお引き取りください」死神にいつまでもいてもらっては私も困る。
いや、本人は死神と言っているが本物かどうかもわからない。心を病んだ人かもしれないではないか。
「いや、私はあなたが生き神というのが許せないのです。だいたい、私のことは皆死神と呼び捨てにするのに、あなたのことは生き神さま、と“さま“付けするんですか」
「それは私が言い出したことではないからなあ」
「しかも、生き神は皆で敬うのに。私のことなぞ名前を聞いただけで慄えあがる。何という不公平。しかも、私が死神であなたが生き神。名前は正反対の意味なのに言葉のニュアンスはまるで違う。不公平すぎる」
「でも死神さんは、自分が死神だと確信しておられるんですね。なぜですか?」
「私はなぜか、これから死ぬ人の周りに引き寄せられてしまう。なぜ引き寄せられるかわからないが、その人に一定以上近づくと必ずその人はすぐ死んでしまう。だから気づいたのですよ。私が死神であるということにね」
「どのくらい死神をやっているですか?」
「さあ、とにかく物心ついてからずっとですからねえ」
この世は人で溢れている。引き寄せられて人が死ぬくらいでは間に合わないのではないか?
「死神って、あなた一人なんですか?事故や戦争で大量に死者が出るときはあなた一人で大丈夫なのですか?」
「いや、ひょっとしたら実は死神というのは私だけではないと考えるようになってはいたのですがね。死神という職業があるのではないか、と」
「なるほど。じゃあ生き神というのも私の他に何人もいるのだ、と考えてもおかしくはないわけですね。で、どうしようと思うんですか?」
「ふふふ、おわかりですか!」と死神が薄笑いする。嫌な予感だ。死神は死ぬ人の周りに引き寄せられると言っていた。
私の前にいるということは……私も。
そのとき。「待て!待て!待て!」と大声で男が飛び込んできた。
すると死神がへなへなへなと私の前で倒れ込んだ。助かった。これで死神の餌食にならずに済む。
しかし彼は?「あなたは何者ですか。死神から私を助けてくれてありがとう。あなたは何者ですか?」
男は自分の胸を叩いて得意そうに言った。
「名乗るほどでもありませんが、実は私もやはり神なんです。でもこんな場所に引き寄せられるんです。ええ。失う神と書いて失神というんですよ」