Column - 2024.09.01
第239回 捕われの獣
犬も歩けば棒に当たる、と言うが、私もその例に漏れない。
あの日、近くの里山を歩いていると、罠にかかった獣を発見した。体長30センチくらいの褐色の体毛をしたスレンダーな獣だ。必死で罠から逃げ出そうとしているが、残念ながらうまくいかないようだ。罠は踏み板式トラップで金属網の檻になっていた。一度、蓋が閉じると自力で中から出ることはできないようだ。
獣は私に気がつくと、暴れるのをやめ、すがるように私を見た。なんだか涙ぐんでいるようで、その目を見ていると、可哀想でたまらなくなった。
罠は、ネズミ捕りと構造は同じだった。私は罠に近付いて、仕掛けになっている蓋を上げてやった。獣は、その瞬間に喜んで外に飛び出す。それから逃げ去ろうとするときに獣は立ち止まり、振り返ると何度も頭を下げた。喜んでいる。私に感謝の気持ちを伝えたかったのだろう。よしよし。もう二度と罠に捕まるようなヘマをするんじゃないぞ、と私は呟いた。
帰りがけ、自分がなにか善行をした気分でうきうきしていたことは隠さなくてもいいだろう。しかし、あの獣はいったいなんだったのだろう?狐にしては小さすぎるし。
その夜のこと。夜は何を食べよう、面倒だなぁ。とテレビを見ていると玄関を叩く音がする。
誰だろう?
あわてて立ち上がり玄関へ行き、ドアを開くと若い女の子が立っていた。上品な褐色の服を着ていて、深々と私に頭を下げた。知った顔ではないが、とても美しくスレンダーでスタイルもいい。よもや。
すると彼女が言う。その声は、鈴が転がるような心地よい声だった。
「今日、危いところを助けていただいたものです。本当にありがとうございました。嬉しくてお礼にうかがいました」
えっ!今日……。ということは、実は、昼間に罠から救ったのは、この美女だったということか。美女が化けた姿?狐は化けると聞いたことがあるが、そうか、あれは狐より小さいから、イタチだったのか?
イタチに化かされたという話も聞いたことはあるような気がする。私は悪戯心を起こした。
「それは。それは。よくおいで下さった。狭いところですが、おあがり下さい」
女は申し訳なさそうに部屋に入ってきた。どこから見ても人間だ。こんなにうまく化けられるものか、と感心した。
女にお茶を出すと、女はゆっくりと、部屋を見回した。
「あの。お礼にあがりましたが、何を持参したらいいのかわかりません。とりあえずお話をうかがってからがよいかと思いまして。現在、何かお困りのこと、不便なこととかありませんか?」
「いや、気楽なひとり暮らしで別に困っていることはありません。男やもめで少々部屋が汚いのは仕方ないと思いますがね」
そう答えると、女は、ぽんっと手を叩いて立ち上がり、前掛けをつけて「わかりました。では、部屋を片付けさせていただきます」
ぽかんとしている私を尻目に、女は箒がけ雑巾がけを始めた。何という行動力なのだろう。
みるみる部屋はぴかぴかに磨きあげられた。とても私の部屋とは思えない。
「お食事はすまされましたか?」
「いや、即席焼きそばでも作るつもりでした」
「そうですか」と女は立ち上がり冷蔵庫から何かあり合わせの食材を取り出すと、てきぱきと何やら作り始めた。
「お待たせしました」
テーブルの上にあったのは初めて見るような高級料理。うまい。奇跡のようだ。「いやぁ、こんなお嫁さんがいたら、素晴らしいだろうなぁ」と思わず漏らす。「そうですか。嬉しいです。ぜひ、私をお嫁さんにして下さい」と女が言った。
一瞬、ワクワクしたものの思いなおした。彼女はイタチなのだ。それはまずいのではないか?
「そればかりは、許されないのではありませんか?人間と獣の婚姻というのは、昔から民話では悲劇的な結末ですよ」
「そうでしょうか」と女は言った。すると、突然女は立ち上がりピタンと飛んだり床をごろごろと転がったり。
何をやっている。この女は!!と驚いた。目を離そうとするが目が離せない。私はくらくらして意識が遠のいていった。
目が醒めると、そこには誰もいなかった。
それから、数年が経つ。あの美女を時々思い出すが、あれはイタチなのだと自分に言いきかせた。ある日、玄関に彼女がいた。心がときめいたが、どうしたんだ。そう尋ねると女は「結婚しましょう。私のお腹にはあなたの子がいます」
私はエー!と驚く。何故?
「私はオコジョなのです。オコジョが獲物を捕まえるとき、踊りを舞うのをご存知ですか?あれは、獲物に睡眠術をかけているのです。あなたには結婚願望があった。それを見抜いたから、あの踊りを舞って……」エーッ。
「でも、あれから、随分と時が経っている」
「オコジョは着床遅延という能力があります。出産に適した時期まで受精卵を着床させません。そして今、子宮着床になったんです」
そうか。ならば私は責任をとらなくては。
こうしてオコジョの女と私は結婚してはや十数年、今も幸福な生活を送っている。
息子ももう高校生だ。息子が「今度、ぼくのオコジョを紹介するよ」
それは彼女のことだろう、と訂正するのだが、息子にとっては彼女のことを「オコジョ」としか言えない。それはオコジョの血をひく本能らしい。まぁそのくらい仕方ないか。