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Column - 2024.10.01

第240回 見える筈がないもの

私は好奇心が強い方だと思う。歩いていて変な人を発見すると、話しかけずにはいられなくなる。このときの人もそうだった。
その男は歩いていて急に立ち止まり、前方の空間をじっと見続けている。
何を見ているのだろう?その男の前には何もないのに。
私は好奇心を抑えきれず尋ねた。「もしもし。あなたは、何もない場所をしげしげと見ておられる。何を見ておられるのですか?」
すると、男はうなずいて答えた。「いや、私には見えるのですよ。他の人には見えないものが。ほら、そこ」
何もない。「見えません」
「両手を垂らして恨めしそうにこちらを見ているじゃありませんか。何か言いたそうに」
「ひょっとして幽霊ですか?」
「そのようですね。普通の人には見えないのでしょうね。人は視覚に頼って価値を判断していく傾向があります。見えるものは信じ、見えないものは本当か疑う」
そんなものだろうか?
「つまり、あなたは霊が見えるというわけですね」
「いえ、霊だけではありません。上を見てごらんなさい。何が見えますか?」
「太陽と青空が見えますが」
「はい。間違いではありませんが、私には青空のずっと上に、またたく星々が見えます」
私はびっくりした。確かにそうだろう。太陽の光で星々の光はまったく見えないが、青空の上に、現実には星々が存在している。それが見えるというのは、本当にこの人は特殊体質なのかもしれない。
「私は変り者と人から言われて不思議でなりませんでした。人に見えないものが見えているのは、私にとっては当たり前のことだと思い込んでいました。ところが、私の方が珍しいのですね。他の人には見えないのですから。
どうりで私の価値観と他の人の価値観は違うんだとわかりました。見えるもので人の価値観は変化していくんですね。だから、“百聞は一見にしかず”って言うんですよね。おや、危ない!」
そう言って男は、私を押した。それも瞬間的なこと。
「もう、大丈夫です」と私の腕を引いた。私には何がなんだかわからなかった。
「えっ?いったいどうしたんですか?」と私は尋ねる。男は、「危なかった!」と言った。
「いえね。今、インフルエンザのウィルスが風に流れて飛んできたのですよ。あなたは私が押さなければ、危うくインフルエンザのウィルスを吸い込んでしまうところだった。潜伏期間を過ぎたら、あなたは高熱でウンウンうなされるところでしたよ」
信じられない。インフルエンザウィルスに襲われようとしていたなんて。
「あなたにはウィルスが見えるのですか?」
「ええ。ウィルスだけじゃありません。細菌なんかもわかります。だから、私には皆が手洗い、うがいを毎回せずに、汚い手のままで過ごしているのが不思議でならなかったのです。皆には細菌やウィルスが見えないから、食中毒になるんだなあ、と思いますよ」
そんなものまで見えるのか。
「じゃあ、バイ菌がそこにいますよ。注意して!と教えれば、皆さんは食中毒や感染症にならずに済むということなのですね?」
「はい。かつて私はそうしていました。しかし、食べている人に、今食べたものにノロウィルスが附着しているのが見えましたよ、と教えてやっても、私が頭のおかしい人間だと思われてしまいます。だから、最近は口を慎むようになりました。いいことなのか。あなたになら真実を話してもいい気がしたものでね」
あまりに意外な話の連続で私はどう口を挟んだらいいのかもわからない。そんな私のバッグに男は目をやった。
「おや、あなたはクラシックがお好きなのですか?」と私に尋ねた。
「え?」と答えて自分のバッグを見ると、バッグのポケットからCDのディスクが見えた。それは、さっき人から借りてきた音楽のCDなのだ。カバーが付いていないから、男には何のCDなのかわからない筈なのだが。
「わかりますか?」
「ちょっと見えただけなので、すべてはわからないのですが、貸して貰えますか?」
私はCDを男に渡した。男はCDを目に近付け、ゆっくりと首を動かした。何をしている?と思ったとき、男が言った。
「素晴らしいコンサートだ。ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』ですね。ゲルギエフ指揮のようだ」
その通りだった。
「なぜわかるんです?CDを見ているだけで」
「いえ。CDの面のデジタル信号が見えて感じるのですよ。これも私にある見える力の一つなんですけどね」
なんと素晴らしい能力を数々持っている人なのだろう。このうちの能力の一つでもあればと願ってしまう。羨ましい。
「そんな数々の能力があれば、悩みなど何もないでしょう。素晴らしい方だ」
だが、男は首を振った。「今は就職活動で色んな社を受けまわっていますが、人事担当者から駄目出しを受けるんです。あなたはわが社の求める人材とは価値観も能力もちがうようですってね。」
こんなに色々見える能力があるのに、採用しない会社ばかりとは、見る目ない会社が多いんだな。
男には自分の未来だけは見えないなんて世の中、皮肉なものだ。

 

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