Columnカジシンエッセイ

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Column - 2024.11.01

第241回 駅ピアノ

その日は、初めての土地へ出張だった。
朝一の新幹線に乗り、その駅で降りた。
かなり大きな都市で、駅も比例して大きい。
出張の目的である会社は、駅から歩いて十分ほどの場所。そこで約束の時間に担当者と会って、開発商品の説明をすることになっている。担当者は時間に厳しいと聞いていたので、予定より随分早く駅に着くようにスケジュールを組んだ。
駅に着いたのは予定時間の三十分も前。目的の会社のあるビルの前には公園があるようだから、そこで時間調整して訪問すればいいと考えていた。
改札口を抜けてビル方向へ伸びる通路を歩く。広場に出たら、左方向の通路に進めばいい。ちゃんと調べておいた。早足で歩くと、その広場へ出た。広場あたりは、随分と通行量が少なくなっている。
これから左方向へ数分歩き、階段を昇れば目的のビルの前に出る筈だった。
ふと広場の隅の黒いものに目が留まった。何だ?
ピアノだ。
テレビでも見たことがある。街角や駅広場などに置かれているピアノで、ピアノに心得のある人が挑戦して名曲を奏で、通行人たちを楽しませる。
これも、そんな駅ピアノなのだろう。少なくとも私には関係なさそうな代物だ。私は唄も音痴だし、小学校の頃から音楽の成績は悪かった。楽器にも興味はない。
もし、ピアノを弾ける腕があったりすれば、この駅ピアノに挑戦してみようという気持ちになったりするのだろうか?
テレビで通りすがりの人が、何気なくピアノに向かい名曲を流暢に弾きこなしている人がいかに多いことか。それも楽譜もなしにやってのけているのだ。
まあ、こちらには関係ないことだが。さあ、目的の会社に急ごう。
待てよ!
そんな考えが浮かんだ。もう一度、ピアノを見た。何だかピアノに呼ばれたような気がしたのだ。立ち止まった。
<そう慌てなくてもいいじゃないか>
ピアノが私に言ったような気が。
<ピアノを別に弾かなくていいんだよ。ここに座ってみたらどうだ。仕事前の焦る気分が落着くぞ。皆がどんな気分でピアノを弾いているのかわかる筈だ。ほんの数分、座ってみればいい。>
それもそうだな。まだ時間に余裕はある。立ち止まりピアノに近付く。
椅子に手を伸ばし、座ってみた。まわりを見回すと通行人がこちらを見て、ホォ、これから弾くのか、と感心した様子で眺め、通り過ぎていく。ほんの少しだけ得意になっている自分がいた。座っているだけだ。弾けないのにね。すると、ピアノにまた話しかけられる。いいや、これも気のせいじゃないのか。
<どうだ。いい気分だろう。鍵盤を指で押してみればいい。凄くいい音がするぞ。皆が知らなくてもいい。それがおまえの曲なんだから。誰も知らない曲、おまえだけの曲>
両手を出して鍵盤にあててみた。
<さあ、弾いてみろよ。素晴らしい指じゃないか。まさに芸術家の指だ。そのまま鍵盤に指を叩きつけるんだ。気持ちを指先に込めて>
弾ける筈がない。しかし、弾いたら気持ちいいだろうな。すっ、とするだろうな。そうだ、どんな音がするかだけ。
指を叩きつける。ピアノから音が響いた。指先から全身に震えるような快感が走った。指先が、まるで自分の指先でないような動きを見せる。小刻みに指が動く。いや、自分ではないような天才的ピアニストの指さばきだ。自分の手でこんなメロディが弾ければいいのにという自分の潜在的願望が現実化した状態といえばいいのか。
初めて聴くメロディだが、弾いている自分が陶酔してしまうような曲ではないか。そして指先が、信じられないほど広がり、快楽の和音をものにしているではないか。弾いている。弾き続けている。
まわりの気配に気がついた。顔を上げると、先程まで誰もいなかったというのに、広場は今や人だらけだ。皆がピアノのまわりで演奏に聴き惚れている。指が勝手に演奏を続けている。何が起こっているのだ。これは自分の演奏ではない。
何かやらなければいけないことがあったような気がする。どこかに行かなくては、という気がするがなんだったろう。大事なことだったと思うのだが。指が止まらない。いや、これほど素晴らしいことがあったろうか。弾いていてこれほどピアノの音が気持ちいいものとは。あまりの気持ちよさに指先からピアノに何かが流れ出ていく。少しずつ究極のメロディに自分の精気がすべて吸い出されていくようだ。ふと、目が、譜面台に吸い寄せられた。譜面台の裏に何かがいて、こちらを満足そうに凝視しているのに気がついた。その目が細く笑うように見えると、こちらの演奏の指の動きも超絶技巧になるのだ。そこで気がついた。音楽も楽譜も何もわからない自分がピアノに取り憑いている何かに操られているからなのだ。ひょっとしてこいつはピアノの魔物?
この駅ピアノは呪いのピアノだ。通りかかる犠牲者を誘いこみ、ピアノを演奏させる。そして、指先から精気を吸いとってしまう。それが駅ピアノの餌なのか。
その犠牲者に選ばれてしまったらしい。
テレビで流れていたのは、妖怪“呪いの駅ピアノ”の実況だったというわけか。どうすればこの危機から逃げ出すことができる。そうだ。本来の自分に戻るのだ。弾き間違えて不協和音を鳴らす、というのはどうだ。駄目だ。指が操られている。不協和音にならない。
最後の手段だった。弾いている鍵盤におもいっきり自分の頭を打ちつけた。これしか方法はない。魔物も頭を使って弾くとは、考えなかっただろう。ズガン!ズゴン!何度も。何度も。頭を打ちつける。頭に不協和音が響き、奇跡的に両手の指が解放された。
<ちっ。逃げやがった>としわがれた声が聞こえた。助かった……!
やっと立ち上がり、ピアノを離れる。自由になった手を振りまわすと、まわりに集まっていた聴衆たちが、演奏が終わったと思ったらしく、私に盛大な拍手を送ってくれたのだった。

 

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