Columnカジシンエッセイ

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Column - 2020.03.01

第184回 先輩がミャオ

 先輩の様子が変だった。
 電話で話した後で気になって先輩のマンションに寄ってみた。先輩はここで愛猫と一緒に暮らしている。家族はいない。しかし、飼っている猫が大好きなようだ。だから先輩は一人暮らしを続けていても苦にならないらしい。仕事は先進医療の研究とのことだが、その分野では先輩のような変人は少なくないのかもしれない。部屋の中に研究に必要なのかもしれぬ医療ロボットやらが何台もあるし、住まいが工場なのかもわからない。ワンフロアーを先輩が一人で借りている。内部はまるで町工場みたいだ、と言えばいいのか。心配が取り越し苦労であればいいが。
 先輩!元気ですか!と部屋に入り、驚いた。
 部屋中にソファーがあり、そして先輩の愛猫、三毛猫のミャオが鎮座していた。ミャオは、先輩がもう10年以上可愛がっていた。まさに家族以上のメス猫だった。ミャオと呼ぼうとして変化に気がついた。なんとミャオの頭が猫ではない。先輩だった。
「どうしたんですか先輩。変わり果てた姿になって」
「おお。どうして、ここに」
「電話で様子が変だったから来てみたんですよ。驚きました」
「ああ。俺が虚血性の心臓発作を起こしたとき医療ロボットがやってくれた。ミャオが数ヶ月前亡くなったときに遺体を保存しておいたから、医療ロボットが俺の組んだプログラム通りにな。早々に俺の頭にぴったりの肉体はない。しかしミャオは免疫反応はクリアしてた」
「だから、三毛猫の身体に頭を接着したのですか?これでは人前に出たら皆、大騒ぎしますよ」
「別に人前に出る必要はない。それに俺はミャオを何にも代えがたいほど可愛がっていた。だから、ミャオも生前は俺になついていたし、俺もミャオのことを愛していた。そんな俺がミャオと一緒になれたなんて素晴らしいことだとは思わんかね!」
  まさにマッドサイエンティストだ。
「なにも人間の身体であったときと変わることはない。ペンを握るのは不自由だが、キーボードなら自由に押せるし、今は音声入力も可能だ」
 そう言って、先輩は右前肢でキーボードを叩く。参考文書を検索していたようだ。そして〈注文する〉を押して得意そうに言った。
「な。こうしていれば外に出なくても必要なものはここに配達されるし、研究に不自由を感じることはない。」
「さぁ、この書の関連本は他にはないのか?」先輩がパソコンに叫ぶと画面にずらずらと関連本が並ぶ。音声入力の検索でも大丈夫だというのがよくわかる。
「必要なものはここに届くし、作業がいるものはロボットがやってくれる。俺とミャオは一心同体で何も困ることはない」
 なるほど、とも思う。まさに先輩にとってはこれは理想なのかもしれない。
 そう思ったときに外から先輩の名を呼ぶ声がした。「いるんでしょう。返事してくださいよ」それから、ドアの開く音。中年男がずかずかと部屋に入ってきた。しまった。ここへ来たときにうっかりロックするのを忘れたようだ。先輩が叫ぶ。
「何を勝手に入って来るんだよ。家賃なら来月分までネット振込を済ませているだろう!」
 そうか。入ってきた男は、この部屋の家主か。しかし、店子のところに家賃も溜まっていないというのに、何をしに来たんだろう。
 家主らしき男は血相を変えて叫び返した。
「うちのマンションでは、ペットを飼ってはいけないことになっている筈だ。ご存知でしょう。なのに、おたくはルールを破って猫を飼っているではありませんか!他の入居者の方にしめしがつかない。ペットを手放すか、ここを退去してください!」
 すると、先輩はしらっとした顔で「えっ。うちはペットなんか飼ってませんがね」と、猫の手で頬を掻きながら言う。家主はその態度にも神経を逆なでされたようだ。
「それは通りません。ほら、猫があんたの首の下におるでしょう。そりゃあペットだ。猫じゃないか」
 すると、先輩は高笑いして後肢で立ち上がり家主に言い放った。
「確かに首から下は猫に見えるかもしれないが、これは見た目だけだ。人格は俺自身だし、この身体の行動も俺が決定している。だから、猫やらペットやらは笑止!存在しない。何のルール違反もしてはおらんわ。勝手にプライベート空間に足を踏み込むお前こそ、警察に通報するぞ!」先輩にそう言われて家主は悔しそうに引き下がった。先輩はなんとずるい人なのだろう。屁理屈を屁理屈と思わせずに主張するとは。まんまと先輩は家主を追い返したのだ。これで猫に似た身体を持つ先輩の新しい人生が始まるのか!先輩の理性はすべてを解決するのか!そう感心したときだった。窓の外からキジの雄猫が長く誘うような声で鳴いた。キジはミャオの恋猫だったらしい。
 高笑いをしていた先輩の表情が変わった。それまで立ち上がっていたミャオの身体は尻を窓の方に向けているのだ。そして、気がついた。3月。猫たちは発情の季節なのだ。頭は天才の先輩でも、その身体は‥メス猫なのだ。
「なんと、なんと、理性を持ってしても逆らえないこの衝動。どう判断すればいいのだ」
 嫌悪の表情で抗いつつも先輩のミャオの身体はキジのいる窓際へ吸い寄せられていく。その結果を見るに忍びず、私は急いで部屋を出た。

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