Column - 2025.07.01
第249回 防災訓練
私の勤める会社は月に一度、防災訓練をやる。何の防災訓練になるかはわからない。その次期、社長が不安に感じていることがテーマになる。例えば、六月は水害対策の訓練だった。梅雨を迎えることからだろうと納得できる。近くの河川が氾濫したという想定で、重要な書類や機器類が濡れないように、より高い安全な場所に避難させる。水の侵入を防ぐために土嚢を準備する。他にも、火災時の訓練もやった。皆で消火器の使い方を確認したり、バケツリレーをやったり。おかげで火事のときにも、あわてずに対応できる自信がついた。これから秋を迎えようという頃には台風の直撃に備えようとの社長の提案で、避難時の心がまえ、そして地震災害から身を守るための訓練では、社内の倒れやすい備品、設備類の再確認をやり、津波に備えて避難経路を確認して、実際にその道をそれぞれの足でたどってみた。
そんな防災訓練だが、来月は何をやるのか、まだ社長から聞いていない。私が総務の立場で社長の企画を聞いてから、具体的な訓練を決めるのだ。もう、いろんな災害を想定してやりつくしたと思うのだが。また一度もやったことのない訓練があるのだろうか?
社長に次回の防災訓練の企画を尋ねにいった。「社長、次回の防災訓練は何をやりましょうか?」
社長は窓の外を見ていた。
「うん。次回は、ゾンビに会社が襲われたときの訓練にしようと思っている」
私は耳を疑った。
「は。ゾンビですか?歩く死体のゾンビですか?」
「そうだ。あの凶暴なゾンビに我が社が囲まれたときに、どうすれば被害を最小に抑えることができるか、考えておくべきではないかと思ったのだ」
さすがに私は呆れ、社長に言った。
「あの。ゾンビというのは映画の中の作り話ですよ。現実にはゾンビなぞ存在しないんですよ。映画のゾンビはジョージ・A・ロメロがナイト・オブ・ザ・リビングデッドを撮ってから、人気が出て色んな映画に登場するようになったのです。
すると社長からは意外な答が返ってきた。
「そのくらいわしも知っておるわ。だがな夢物語のはずのゾンビ話が映画の中でこれほど大流行しているのは何故か、考えたことはないのかね」
「お、おもしろいからではないのですか…?」
「ちがうね。わしは、ゾンビ映画がこれほどに流行する真理に気がついたのだ。人類は潜在意識下で人間がゾンビ化する運命を予知している。だからこそ、理由はわからないくせにゾンビ映画を作り、求めるのだよ。そこにわしは気がついた。だから、ゾンビが現実に現れる前に、ゾンビが出現し人間を襲うパニックをどのように防御するか、考える必要がある。
「どうだ。納得できたかね」
私は喉元まで「ゾンビ映画を製作するのはゾンビのメイクするだけで一本映画が作れて、製作費がかからない。そういうことではありませんか?だから学生映画でも皆がゾンビ映画を作りたがる。それでゾンビ映画だらけになったのではありませんか?予知なんかじゃないと思いますよ」と出かかっていたのだが、遂に、そのことは言わなかった。何せ社長なのだから。社長の言うことには逆らえない。代わりに言ったのは「わかりました」だ。
「では、次回の防災訓練の準備に入ろうと思います。社長のイメージをお聞かせ下さい」
社長は満足そうに大きく頷いた。
「うむ。今回の訓練は何人かゾンビ役が必要だな。集めることができるかな。もちろん総務の君とか、ゾンビのメイクをしてな」
それは当然予想していた。
「はい。ご期待に応えるよう努力します」
「うん。ゾンビの特性を十分に勉強しておいてもらいたい。一般人がゾンビに傷付けられるとゾンビになってしまうことも教えておいてくれ。それからゾンビは走ってはいけない。ゆっくり歩いて来るように。ゾンビの急所は頭だ。頭を破壊すれば殺せる」
「本当にそんなことはしないように伝えます」
「ゾンビは大きな音を聞くと動きが止まる。ゾンビ役は覚えておくように」
社長室から戻ると各部各課に次の防災訓練は「ゾンビ訓練」であることを伝えた。皆が信じられない表情であることは明らかだった。まさに私も営業が言った「本気でやるんですか」の気持ちだった。
訓練当日、私は妻のメイク道具を借りて、ゾンビ姿に化けた。家族は私の顔を見て、腹をよじらせて笑っていた。会社へはマフラーを巻いて出勤した。
予想通り、朝一番でゾンビの防災訓練が実施された。ゾンビ役は私とあと二名総務から。そしてゾンビに捕まると、その者もゾンビ役になる。最初は緊張して防災訓練をやっていたが、だんだん白熱化して私の頭めがけて石を投げてくる始末だ。ゾンビを殺すには頭を狙うんだと誰かが言いだしたらしい。念の為、ヘルメットを着けていてよかった。と心から思った。社長室を見ると、満足そうに社長は頷きながら訓練を眺めていた。訓練は無事に終わった。
数日後、翌月の防災訓練の打合せのため、私は社長室にいた。「皆、ゾンビについて正しく認識できたようだね。君たちのおかげだ!」と社長。何よりの一言だった。「さて、来月の防災訓練だが……」
手に持った新聞を私の目の前に置いた。そこには現在公開中でヒットしている巨大原子怪獣映画の写真が載っていた。
まさか…この原子怪獣が襲ってきたら、てことはないだろうな。まさか。
しかし、社長は目を細めて嬉しそうにゆっくりと口を開いた。
