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Column - 2025.09.01

第251回 『猿の手』あります

見知らぬ駅で、何故か気になり列車を降りた。何故、気になったのかわからないが気まぐれに歩き始めた。
その日は霧が出ていてその街は独特の雰囲気が漂っていた。まるで外国のひなびた街のようだ。
少し歩くと喉が渇いてきた。通りに椅子が置かれていてコーヒーを飲んでいる人の姿が見えた。よし、私も渇きを癒すか。一杯飲んだら駅に戻ろう。「いい街でしょう」と声をかけられた。
「いや、初めてなので」と答える。
「何か、この街でおすすめとかありますか?」
声をかけてくれた男は首をすくめた。「この街は静かなことが取り柄かな。他はなにもおすすめはありませんね。名物らしいものはなにも売ってないし。そういえば、一軒だけ古物商のお店がありますよ。変なものばかりあるらしいけれど」
変なものには興味は湧かない。もっと面白い店はないのか?
私の気持ちがわかったのだろう。申し訳なさそうに言った。「すぐそこにありますよ。店の前に『猿の手』ありますと書いてあるから、すぐわかる」
『猿の手』?私は驚いた。
「『猿の手』って有名なあれですか?W・W・ジェイコブズの小説で登場する……」
「そうです。古物商の主人がそのことを言っていたから間違いありませんぞ」
猿の手のミイラの話はこうだ。老夫婦と息子が暮らす家に立ち寄った軍人が言う。三つの願いをかなえる魔力を持つ猿の手のミイラを持っているが、よくない気がするので捨てようと思っている、と。それでは私に、と老夫婦はその猿の手を譲ってもらう。果して、家の借金二百ポンドを欲しい!と願うと、翌日、息子は仕事先の事故で死亡。だが、補償金として老夫婦は二百ポンドを受け取った。息子の死を悔やむ妻は、あと二つ願いをかなえてくれると思い当たる。猿の手に頼んだ。息子を返してくれ、と。すると誰かが表のドアを開けてくれ、と叩き始める。妻は息子が戻ってきた、と狂喜する。妻がドアを開けようとした瞬間、夫は怖しいできごとを予測する。夫は猿の手に三つ目の願い事をした。すると、ピタリとノックの音が止んだ。ドアを開けると外に誰の姿もなかった。
それが、『猿の手』の話のすべてだ。その『猿の手』が、こんなひなびた街の古物商店に流れ流れて売られているとは。
「『猿の手』が、巡り巡って、何故こんな小さな街にあるんですかね?」
「さあ、それはわかりません。『猿の手』の話でも、その話以降の『猿の手』がどのような人の手に渡り、どのようなできごとがあったのかは誰も知らないことではありませんか?それが幾人もの人の手を経て、日本に渡り、この街にやってきたとしても、何も不思議ではないと思いますよ」
もし、本物がそこにあるとすれば、ぜひ手に入れたいと思う。三つの願いがかなうとすれば……。ぼんやりと、そんなことを考えていた。
「おっ。興味があるんですね」
「ええ。まあ…その古物商は、ここから近いんですか?」
「ええ。すぐに見つけられますよ。大きな目玉が描かれた看板があるから、わかりやすい。それに大きく『猿の手』あります、という貼紙がドアにありますから」
私は礼を述べて立上り、歩き始めた。本当に願いをかなえてくれる『猿の手』が存在するならば、願うことがある。
私たち夫婦は長年の夢であったマイホームを建てた。そして四千万円のローンを組んだ。十分に計画したつもりだったが現実にはその借金は苦しかった。余裕はまったくない。何のために生きているのか?借金を返すため?
本当に『猿の手』があるとすれば、その四千万円が入ってくることを願う。そうすれば、私たち夫婦は、これから人間らしい生活を送ることができるようになるではないか。
もし、その『猿の手』が本物であるならば、願いは三つもいらない。一つだけで十分だ。
他に家族もいない。私たち夫婦二人だけだ。
歩いている人は誰もいない。薄暗い街をとぼとぼ歩くと、前方に看板が見えた。その看板は大きな目玉を描いたものだった。霧の中だと不気味さが増す。『珍古堂』と書かれていた。ここだ。ドアは木製で閉じられていた。営業しているのだろうか?ここに本当に『猿の手』が売られているのだろうか?
なるほど。ドアに手書きの貼紙があった。
<『猿の手』あります>
ここだ。間違いない。それにしても深い霧だ。ここまで近付かなくては、なんと書いてあるかも読めないとは。
内部から光が漏れているのが見えた。ちゃんと営業しているらしい。『猿の手』があれば、ぜひ売ってもらおう。
ドアに近付くと内部で興奮したような声が聞こえた。先客がいるらしいが、何事があったのだろう。先客らしい女の声は、どうも聞き覚えがある。誰だったろう。あんなに興奮して泣き喚くとは。私は耳をすませた。
「そりゃあ、私は四千万円欲しくて『猿の手』に願いましたよ。四千万円欲しいって。それがなんです。列車事故があって、私の主人が死亡して、その補償金が四千万円だって。主人を返して下さい」
これは私の妻だ。この店の噂を聞きつけて『猿の手』に四千万円欲しいと願いにきていたのか。そして私が列車事故死してるなんて。
「そうだ。まだ二つ願いがかなうんですよね。愛する主人を生き返らせます。お願い『猿の手』」
私はドアを叩いた。私はこうして生きているぞ。冗談じゃない。
すると中の妻の声が止まる。私はドアを叩き続ける。すると、珍古堂主人が妻に言う。
「怯えないで下さい。願いはもう一つかなえられますよ。それを願って!」そして妻は…。三つ目の願いを口にする…。すると…。

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