News Releaseお知らせ

RSS

News - 2022.06.01

第212回 ことわざの日

 今日が「ことわざの日」であることは、朝のニュースで知った。なんでも、他人と話すときは会話の中に“ことわざ“を入れないと違反になるらしい。キップを切られて罰金を取られたり、悪質な場合は逮捕されたりもするということ。なぜ、そんな日なのだろう。と思ったら、文部科学省の発案らしい。正しい日本語を学ぶ委員会から「廃れゆく日本の言葉や言いまわしを守る日」を作るという提言がなされ、制定されたらしい。毎年テーマがあり、第一回の今年は「ことわざの日」にすると発表されたとのこと。実施時間は、午前九時から午後五時まで。それを知ったのが朝の八時半。
 あせった。
 よく考えると「ことわざ」をほとんど忘れているのだ。
 家を出るとき妻に愚痴る。「ことわざなんて思いつかないよ」すると妻は「いってらっしゃい。案ずるより産むがやすし」
 まだ九時になっていないのに、ことわざが入っていてびっくりした。こやつ、できるな。「いってきます」「いってらっしゃい。サイは投げられた」
 会社に着くと、女子社員たちが掃除をしていた。「おはよう」と挨拶してはっとする。こんなときに加えることわざは……「いやあ、早いな。いずれあやめかカキツバタ」と心にもないことわざを思いついて口にした。女子社員たちがどっと笑った。「早起きは三文の得ですから」と一人が私に返した。さすがだ!と感心する。
「やあ、みんなおはよう」山田部長が出社してきた。なにもない。言葉にことわざが続かないないので、女子社員たちは顔を見合わせた。山田部長はことわざの日のことは何も知らないのだろうか?
 すると、遠くから大音声が響く。「山田部長、ことわざの日アーウト!!油断大敵!」どこに潜んでいたのだろう。全身真っ黒い服を着た男たちが現れ、山田部長に駆け寄ってきた。それから四つん這いにさせるとズボンを剥ぎ、真っ黒いオールのようなもので尻を強く引っ叩いた。痛いのだろう。山田部長は涙を流して、女の子のような悲鳴をあげた。それからやっと彼は今日がことわざの日だったことを思い出したらしく「後悔先に立たず」と言ったが遅すぎたようだ。挙句に、山田部長は違反キップを切られていた。尻を叩かれた上に罰金とは……泣っ面に蜂ではないか。
「まさに、世の中一寸先は闇ですね」と同僚が言った。さすがだ。始業と同時に、私は営業回りで得意先に行く。こんなときは、経理や総務はいいなあ、と羨ましく思う。だって不必要な会話をやらなくて済むのだもの。外に出ると黒い服のさっきの日本語監督官たちがうろうろしていて緊張してきた。すると、よちよちとお年寄りがこちらに近づいてきた。紙を見せた。道を私に尋ねようというのだ。「ここに行きたいのですがね。教えて下さい。老いては子に従え」心臓がばくばくする。しかし、無視もできない。「はい、こう行って、こうですね。混むときはこちらへ。急がば回れ」お年寄りは頭を下げて去っていった。
 得意先に着く。「こんな日に営業に来るとは。まさに時は金なり、の仕事熱心」と、そつなく対応された。「いえ、若いときのしんどは買うてせよ、ですので。恐れ入ります」「おお素晴らしい。今日会う連中は、皆、緊張か幽霊の浜風だからねえ」え、幽霊の浜風もことわざなのかぁ。知らなかったなあ。
 急いてはことをしそんじるとか、悪銭身につかずとか、あるとき払いの催促なしとか、よくしたもので商談の間もさまざまなことわざが挟まれ、使いなれないことわざがこんなにあったのか!と感心した。
 やっとのことで1日が終わり退社した。しかし、これほど疲れる一日になるとは。
 もう五時を過ぎていて、なんとか無事にことわざの日をやり過ごすことができた。日本語監視官の姿も無くなっているようだ。
「ただいま」と家に帰る。妻が「一日、お疲れさまでした」と声をかける。「うまく過ごせました?」「ああ、水火を辞せず、というやつだよ。当たって砕けよ、だ!」今頃になってことわざがすらすらと出てきて驚いた。「しかしなんで、こんな日を作ったかな。日本語が乱れているとはいえ」
 すると妻は「悪法も法なり、ですから」と平然と言った。たった一日で、ここまでことわざの日の効果が浸透するとは。
「だけど、ことわざの日も一日だけだと言っていたよね。ということは、来年の廃れゆく日本の言葉や言いまわしを守る日はないのかな?」
「あら、知らないの?もちろん、あるのよ。内容は変わるけれど」
「内容が変わるの?どんなん?」
「来年はね。朝九時から午後五時まで“早口ことばの日“になるのよ。生麦生米生卵とか、東京特許許可局とか、ジャズ・シャンソン・歌謡曲とかを人と話す前に必ずいう日なんだって」
「ふえええ。また一日中、それかよ」
「さ来年はまたテーマが変わるの。その日は会話には気をつけなくていいの。その代わりにショート・ショートの日になるの。その日のうちに国民は全員ショート・ショートを書かなくては……」ショート・ショート!私はめまいがしてきた。

※このカジシンエッセイからショート・ショート集が出ました。新潮文庫から「おもいでマシン」です。40の選りすぐり作品でおもてなししますので、よろしくお買い求めくださいませ。通勤電車でもトイレの中でも、あっという間に一話読んでしまえます。ご贈答にもどうぞ!(作者より)

お知らせ一覧を見る