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News - 2023.08.01

第226回 今年の盆も蒸し暑い

「この蒸し暑さは夕立ち前ということでしょうか」縁側でタバコを喫っていると花江がそう言った。
「それからお父さん。用意はいいですか。もう、そろそろみんなやってくる頃ですよ」
腕時計を見ると、わが家の恒例の時間だ。今日は盆なのだ。この日は子供たちや孫たちまでわが家に集まってくる。いつもは静かなのだが、今日と正月だけはわが家は笑い声で包まれることになる。老妻の花江も楽しみなのだろう。心なしか声が弾んでいるように思える。
そうか、そういえばあれは昨年のお盆の時だったな。そう思うと感慨深い。
花江は実はすでに亡くなっていた。昨年が十七回忌だったのだが、それから私は一人暮らしだった。よほど淋しそうに見えたのだろう。昨年の盆前に長男の敏一夫妻が訪ねて来て提案した。「お父さん。実は科学が発達してお母さんそっくりの生体AIが作れるようになっているんだ。一緒に暮らしてみない?ほぼ見た目も言うこともお母さんそっくりにできるんだよ」
「母さんそっくりでも、母さんじゃないんだろ。そんな気持ちの悪いものとは暮らせないよ」
「お母さんの体細胞を使ってる最先端のクローンだよ。嫌なときは返品すればいいんだし」
そして断わる心の余裕もなく、花江が昨年の盆からわが家にやってきた。すべて子供たちの手配で。心配は無用だった。まるで花江は生き返ったかのようだ。ロボットでもない。受け応えも花江その人だった。息子の敏一から釘を刺された。
「お母さんそっくりだけれど、自分が死んだという記憶は持っていないんだ。だからお母さんが死んだということには触れないでね。お父さんと結婚して、ずっとそのまま一緒に暮らして来ているって刷り込まれた記憶だから」
「ああ。わかった。しかし、これ以上一緒に暮らせない。無理だと思ったら、そう伝えるから、すぐ返品してくれよ」
「もちろんだよ。お父さんのための生体AIなんだから」
それから生前の花江のような彼女との生活がスタートした。よくしたものだ。花江は十七年間いなかったわけだが、見た目も十七年の経過を感じるものだった。まったく不自然ではない。それまでの心の虚さを十分に埋めてくれるのだ。あまりに花江は自然すぎた。彼女が生体AIだと思いだせることは何もなかった。彼女は急な病で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだが、そのことさえ考えなければ、そのままの花江だった。そして彼女には、息子が言った通り病で倒れた記憶も存在しないようだった。
花江が亡くなってよく考えたことがあった。自分は生前の彼女にどう接していただろう。わがままも言った。思いやりもなかった。もっとやさしくしてやればよかった。彼女の喜ぶことをどうしてしてやれなかったのか。そんなことを庭を見渡せる椅子に座り、あてもなく想いを巡らせていたものだ。もっと、花江のことを考えて暮らしていけなかったのか。
だから、花江そっくりの彼女が家にやって来てから、違和感どころか、すぐに花江その人と思い込むようになっていた。そして、花江に対する言葉遣いも丁寧に変えたつもりだった。もう、二度と後悔しないように。「今夜の食事の片付けは私がやっておく。花江はゆっくりとしていなさい」すると「十分やさしくして頂いてますよ。これ以上あなたに気を遣わせてしまってはいけませんわ」「なんの、なんの」そんな接し方に変わっていた。
我に返った。居間で賑やかな声が弾みだした。孫の可愛い声も交じる。子供たちも揃ったようだ。それに花江の声も混っていた。花江が亡くなっていたときの話題は誰もする筈がない。なごやかだ。このような日々がいつまで続くのだろうか?
「お父さんの好きな水羊羹を買って来ました。あとで皆で食べましょう」
そう言ったのは次男の嫁だった。私なんかに、そんなに気を遣っていてくれるとは。涙もろくなった私は、手の甲で涙を拭いて部屋を出た。
洗面所で顔を洗って気持ちを落ち着かせた。
「あれ、お義父さん、姿が見えませんね。お出かけですか?」
「いや、さっきまで縁側で庭を眺めていたから、もうすぐ来ると思いますよ」
「そうですか。お義母さんのことを大事にされてますか?」
「いや。ほんとによくして貰っていて、ときどき手を合わせたくなるくらいですよ」と花江が言うのが聞こえた。思わず咳払いをしようかとしたが、止めた。すると、長男の敏一が声をひそめて小声で言った。それは、花江に向けられたもののようだ。
「で、父さんは前と変わりない?」
「前と同じですよ。でも、さっきも言ったけれど、ずいぶんやさしくなられたと思いますよ」
私は、そうだろう、と頷いた。
「父さんは母さんが死んでいたと思っているんだ。そしてそれは母さんには内緒だと思っている」
「はいはい。わかってますよ」
「父さんは生体AIだから母さんの記憶している父さんのこと以外は知らないんだ。忘れないでね」「はいはい」
何だって?花江ではなく、私が生体AIで生き返ったというのか?そして考えた。そういえば花江と結婚する前の記憶が私には全くないことに気がついた。私の気配に廊下に飛び出した敏一が言った。「父さん!」
私はどんな顔で何といえばいいのか?

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