News - 2024.08.01
第238回 釜の蓋が開く
生前、よい行いをしてきた人は、あの世では極楽というところへ行く。私もそうだ。
美しい花が咲きみだれ、心地よい音楽が流れている。暑くもなく寒くもない。お腹が空くこともないのだが、甘いものを少しだけ食べたいなと考えれば、どこからともなく甘いものが現れ、味わうことができる。ちょうどよい湯かげんの温泉に浸り、「極楽!極楽」と伸びをする。そんな時間が永遠に続く。
最初のうちはよいのだが、永遠にそんな日を送っていると必ずだんだん退屈になってくる。そんな贅沢を言ってはバチがあたると思うのだが、どんな極楽気分で毎日を過ごしていても、これだけは避けられないようだった。「毎日、いい気分で過ごしているのことも飽きてしまった。もっと刺激的な楽しいことはないものだろうか?何の不満もない。不自由もない。あるのは、退屈だけ。だれか退屈を吹きとばしてくれ。これこそ退屈地獄というやつではないか」と。
ある日のこと。隣に住んでいる男がやってきた。
「やぁ、毎日、極楽ですなぁ」お決まりの挨拶を交わした後、私にチラシを差し出した。
「なんですか?これ」
「いえ、うちの郵便受に入っていた旅行社の案内チラシですよ。この旅行社でツアーを予定しているらしいですよ。興味ありませんかな?」
旅行は生前に行きたいところへはほとんど行ったつもりだった。
「行きたいツアーなんて、ないんですがね」
「いや、内容を見て驚いたんですよ。こんなツアーは聞いたこともない」
「いったい、どこのツアーなんですか?」
「地獄ツアーですよ。地獄に行ったことないでしょう」
確かに地獄のことは話には聞いているけれど自分の目で見たことはない。せっかく極楽に来れたのに阿鼻叫喚の地獄など行こうとも思わない。
「というのが、八月のその日は地獄の釜の蓋が開くんだそうです。地獄の鬼たちもその日だけは休みをとるということで。その日に地獄めぐりをすれば安全で快適なのだそうです。こんな日でもなければ、地獄見物はできませんよ。興味ありませんか?」
なんと刺激的なツアーだろう。地獄の釜の蓋が開き、鬼たちがいなくなった地獄をお気楽に、自由に見て回れるというのだ。鬼たちがいなくても、想像力を使えば日常の地獄の姿を知ることができるだろう。そして、いかに自分が極楽で幸福な日々を送っているのか感謝することができるにちがいない。日頃の幸せに退屈するなんて、もっての外だとわかるだろう。
「そりゃあいい。ぜひ、地獄見学ツアーに参加させてください」と申し出る。「私も」「俺も」と地獄ツアー希望者でみるみるいっぱいになってしまった。
成程、極楽の人々も考えることは一緒なんだなぁ。
お盆の十六日。私たちはその日を迎えた。地獄の釜の蓋が開く日だ。私たちは極楽バスで地獄の入口に乗りつけた。門を抜けると、なるほど、地獄は人っ気がなくガランとしている。本当に鬼たちもいない。塀にはたくさんの鬼の金棒が立てかけられていた。
興味津々で私たちは地獄めぐりを開始した。
「へぇ。こんなところを歩かされるのか!」
でかい尖った無数の針の山がある。針山地獄だ。「痛かろうなぁ」
でかい釜があるが、その時は使われていない。ガイドが「罪人はこの釜で煮られるのです。逃げようとしても鬼の獄卒が出してくれません」なるほど、それが永遠に続くのか。
「熱かろうな、怖かろうな」と地獄に堕ちた人々の苦労を偲んだ。
焦熱地獄も熱そうだし、木の葉が刃物になった山も痛そうだし、地獄はとんでもないところだ。だから退屈は一発で吹き飛んだ。地獄は広い。すべてを見ないと気がおさまらない。ひと通り見学を済ませる。ほどよく汗をかいた。釜を見ると火が入ってないから湯加減はよさそうだ。ひと風呂浴びて、汗流して帰るか。
地獄の釜の湯につかる。するとすっかりいい気分に。思わずウトウトとしてしまう。
釜の上の方はなにやら様子がちがう。はっ、と目を覚した。
釜から顔を出すと、極楽ツアーの連中の姿はどこにもいない。みるみる釜の中の熱湯が噴き出してきて、あわてて釜から飛び出る。寝過ごしてしまったのか。地獄ツアーは私を置いて極楽に帰ってしまったようだ!
このままだと私は地獄の亡者として釜茹でされてしまう。こりゃ大変だ。
日が変わろうとしているのだ。釜から登る。騒がしい声がする。鬼たちが戻ってきたのだ。
地獄の門に急いだが、門はすでに閉じていた。
万事休す。
もう、どうしようもなく身を守るために塀に立てかけられていた金棒を手に取った。すると、あら不思議。私の両腕は筋肉が盛り上がり、赤く皮膚が変わっていく。頭からなにか生えて……角だ。
帰ってきたのは貧相な奴等だった。手当たり次第、金棒を叩きつけ釜に放り込んでやった。
鬼に変身した私は、それから獄卒として亡者たちを苛める日々を過ごしている。
来年の地獄の釜の蓋が開く日まで、とりあえずこうして過ごすつもりだ。案外楽しくて退屈しない。そんな自分が来年、極楽に戻って暮らしていけるかどうかが不安なのだが、とりあえず今は心を鬼にして亡者を苛めることに専念するつもりでいる。